奈良時代の高僧、行基が六甲山を歩いていると、薄汚れた老人が倒れていました。行基が声をかけると、老人は「腹が減って動けない」という。行基は道を引き返し、浜辺で魚を手に入れて老人の元に戻りました。すると老人は「生魚は嫌だ。温めてくれ」と言ったのです。行基は火をおこして魚を食べさせました。
すると今度は「体のただれた所をなめてほしい」というのです。なんとわがままな老人だと思うのですが、行基が体をなめると、なめた所から金色に輝き、薬師如来になったのです。
薬師如来は「私は温泉の行者である。あなたの慈愛の心を試そうと病人の姿で現れたのだ」と言って消えていきました。行基は温泉を探して薬師如来の像をつくり、温泉寺を建立したと言われています。
同様の話が、東大寺の建立を聖武天皇に進言した光明皇后にもあります。ある日、光明皇后は人々の身体の清浄を保つために「千人施浴」を始めました。千人目に行基の時と同じく薄汚れた老人がやってきます。入浴後、乞われるままに皇后が体をなめて膿(うみ)を吸い出すと、老人の体が金色に輝き、阿閦(あしゅく)如来になったというのです。
舒明天皇が遣唐使を派遣して以来、大陸と交流が生まれると、それまで日本に存在していなかった疾病も流行しました。続日本紀によると735年、大宰府から疫瘡(えきそう)(天然痘)が広がり、西日本から畿内にかけて大流行しました。当時の日本の総人口の25~35%にあたる100万~150万人が死亡し、当時政権を担当していた藤原四兄弟も全員が死去したため、朝廷の政治は大混乱に陥りました。それが東大寺の大仏造営のきっかけになったのです。
737年の「類聚符宣抄(るいじゅうふせんしょう)」という法令集に、疾病に関する七カ条が記載されています。その中に療養方法として、温かくしておく、床に敷物を敷いて寝かせる、鮮魚や生野菜は避けて煮ること-などが記載されています。行基や光明皇后の話に出てくる老人の要望にもつながります。
行基が開いたといわれる温泉は日本各地に多く存在し、風土記などには「湯船に盛れて身を浸せば、諸の病ことごとに治ゆ」などと温泉の効能が記載されています。また温泉のない地域では、光明皇后が行った施浴の蒸し風呂が疾病対策の一つです。それらが功を奏したのか、天然痘は738年に収束しました。仏教の布教のために施浴などの慈善事業を起こしたのが奈良時代の特色です。疾病の流行はコロナ感染症も同様で、3年ほどで収束するのかなと思いました。(有馬温泉観光協会)