豊臣秀吉は50代半ばで最愛の嫡子・鶴松を亡くし、心の傷を癒やすため、6回目となる有馬温泉を訪れました。
時は1591(天正19)年8月のことです。この湯治の後、秀吉はおいの豊臣秀次を後継者に指名しますが、その後も秀吉の関心は有馬に向けられ続けました。
7回目の来湯は93(文禄2)年9月10日から27日までです。この年の8月、側室・淀殿が秀頼を出産し、その報を名護屋城で受けた秀吉は、肥前から大坂へ戻る途中、有馬に立ち寄りました。
当時の秀吉は目の不調を抱えていましたが、有馬の湯によって一時的に回復したと伝えられています。しかし、この頃から体調の衰えが目立ち始めていたようです。
翌年の94(同3)年4月、8回目の訪問では、失禁や手足のしびれにより歩行が困難となり、年上の重臣・金森長近に背負われて湯屋へ向かったと記録されています。
長近は千利休の門弟であり、利休が切腹させられた際には、その子・千道安を飛騨高山でかくまった人物としても知られています。
この頃の秀吉は湯治の効能を強く信じており、側室・京極殿を温泉に送り出す際には、「打ち肩や眼病に効く」と伝え、自身が同行できないことをわびる文も残しています。
その年の5月、秀吉は「湯山御殿」の建設を計画し、町家65軒を立ち退かせました。各家には銀11枚と米100石、破却された寺院には米10石が補償として支払われたといいます。また、河川の改修や道路の整備も行われ、本格的なリゾート整備が進められました。
御殿は同年12月に完成し、秀吉はその湯山御殿に滞在します。これが9回目の訪問であり、現存する史料における最後の有馬来湯です。
その後、96(慶長元)年9月5日に伏見で大地震(慶長伏見地震)が発生し、有馬の湯山御殿も大きく損壊しました。
温泉の湯温が異常に高くなったため、秀吉は泉源の修復を命じ、98(同3)年には修復が完了しました。新たに湧き出した場所に新しい御殿も設けられましたが、秀吉はそこに訪れることはありませんでした。
そして同年8月18日、病状の悪化により、秀吉は大坂城にてその生涯を閉じました。秀吉が有馬の湯女(ゆな)や灯明坊主に禄高(ろくだか)を与えましたが、これはその後、徳川三代の時代まで続けられました。
現在有馬にある「太閤の湯殿館」は、秀吉の湯山御殿の湯屋の部分です。(有馬温泉観光協会)