戦国時代から安土桃山時代の浄土真宗の僧・顕如は、1583年1月24日から約2週間、有馬温泉で湯治を行いました。有馬からの帰り道には京都の名所を巡り、宇治や奈良など各地を訪れています。
この年から大坂城の築城が始まりますが、築城に関する打ち合わせの中で、顕如が秀吉に有馬を勧めた可能性があります。その結果、秀吉は8月17日、初めて有馬を訪れたのではないでしょうか。
顕如は9月に再び有馬を訪れます。その際、秀吉は有馬の人々に顕如夫妻をもてなすよう命じました。記録によると、顕如は秀吉への土産として引物(木製品)や、現在も続く有馬の篭を持ち帰ったとされています。
翌年の84年8月2日、秀吉は2回目の有馬訪問を行い、その帰りに大坂城に向かいました。大坂城が築城できたのは、顕如率いる本願寺と門徒が持つ経済力や技術力のおかげです。これに味をしめたのか、以後、秀吉は有馬を接待の場として利用するようになり、部下たちが有馬に行く際には秀吉が滞在費用の一部を負担していました。
3回目の有馬訪問は85年1月で、秀吉はこの時、茶会を開いています。秀吉の妻(ねね)は薬師堂建設のために、現在の価値で約1億5千万円を寄進し、さらに毎年土地の使用料として100石を寄進することを約束しました。
秀吉は7月に関白となり、その年の9月に再び有馬で茶会を開きました。これが4回目の訪問になります。茶会で部下たちとどのような話をしたのかは分かりませんが、翌86年に家康のもとに妹の朝日姫を嫁がせ、同年、正親町天皇から豊臣の姓を賜ります。
その後、九州攻めを行い、87年に九州平定を終えた秀吉は、すぐさま自分の権力を示すために「聚楽第」の造営とともに大規模な茶会「北野大茶湯」を開きました。
そして90年、小田原の北条氏を破り天下統一を果たします。同年10月、有馬で千利休を伴い、後の五大老となる小早川隆景などそうそうたる顔ぶれが揃った「有馬大茶会」が開催されました。秀吉、5回目の有馬訪問です。
翌91年2月、秀吉は千利休に切腹を命じます。有馬で茶会を開いた数カ月後のことです。
同年3月、秀吉は聚楽第にて天正遣欧少年使節が学んできた西洋音楽を聴きます。(この話はいつか詳しくご紹介したいと思っています)
その年、跡継ぎの鶴松が死去し、清水寺で菩提を弔ったのち、心労を癒すために夫妻で有馬を訪れました。これが6回目の有馬訪問です。(有馬温泉観光協会)