西宮神社であった「有馬温泉献湯式」。奉納された金泉を囲み、湯女に扮した芸妓が「湯もみ」を披露した
西宮神社であった「有馬温泉献湯式」。奉納された金泉を囲み、湯女に扮した芸妓が「湯もみ」を披露した

 江戸時代の有馬温泉を語るうえで、湯女(ゆな)は欠かすことのできない存在です。湯女は足利時代に風呂の流行とともに登場したと言われており、浴堂を管理する役僧を湯維那(ゆいな)と呼んだことが、湯女の語源であるとされています。

 湯女研究の第一人者である樽井由紀先生によると、江戸時代の旅行案内書「旅行用心集」には、旅行の心得とともに各地の温泉案内が記されており、その冒頭で有馬温泉が詳しく紹介されています。特に有馬温泉の説明は、他の温泉地と比べて非常に詳細であり、その中心となっているのが湯女に関する記述です。

 有馬では「有馬湯でもつ湯は湯女でもつ」と言われるほど、湯女は温泉運営に欠かせない存在でした。湯女は入浴の順番を知らせたり、客を浴場へ案内したりするなど、湯治客の世話全般を担っていました。浴場が狭く、春夏の繁忙期には約5千人もの湯治客が利用したため、入浴時間を守らせる必要があり、湯女が棒で床をたたいて時間を知らせていたとも言われています。

 湯女は単なる下働きではなく、碁を囲み、琴を弾き、和歌を詠むといった教養を備えた女性でした。また、豊臣秀吉から扶持米(ふちまい)を与えられ、それが徳川三代まで続いたという伝承も残されています。

 18世紀後半になると、土産物として「湯女風俗絵」が販売されるようになります。岡本昌房による浮世絵では、湯女たちが花に囲まれて描かれ、清楚で愛らしい「アイドル」のような存在として表現されています。これらの浮世絵や狂歌から、湯女が温泉地の華やぎを象徴する存在であったことがうかがえます。

 有馬の湯女の評判は各地に広まり、1774年には京都の祇園祭の「練り物」にも「有馬湯女」が登場しました。また、近松門左衛門の浄瑠璃「百合若大臣野守鏡」にも、有馬温泉の様子や湯女について詳しく描かれています。

 一方で、他地域の温泉では湯女の呼称や性格が異なり、加賀の温泉では「獅子」と呼ばれるなど、地域独自の伝承も生まれました。

 しかし、江戸の町風呂に「湯女風呂」が登場すると、湯女は次第に遊女と混同され、遊興的なイメージが強まっていきます。その結果、有馬の湯女にも遊女的な印象が付与され、温泉や風呂そのものに遊興のイメージが広がることになりました。

 本来、湯女は温泉管理を支える重要な労働者であり、地域文化を彩る存在であったと考えられています。(有馬温泉観光協会)