温泉街にずらりと並んだ車を伝える絵はがき。車で訪れる観光客が増加した
温泉街にずらりと並んだ車を伝える絵はがき。車で訪れる観光客が増加した

 1899(明治32)年、阪鶴鉄道(現JR福知山線)の三田駅が開業しました。その年の7月5日には「六甲山鳴動(めいどう)」と呼ばれる地震が33回も発生しています。この影響で、有馬温泉では普段は40度ほどの湯が50度に上昇し、1日に約300石だった湧出量が約600石にまで増えたと伝えられています。

 1石は約180リットルですので、600石は10万リットルを超える大量の温泉です。当時はまだ自然湧出だけに頼っていた時代であり、その変化は人々を大いに驚かせたことでしょう。

 翌1900(同33)年には、有馬の名物となる有馬サイダーが誕生しました。また、九鬼隆一を会長として「有馬保勝会」が設立されます。これは現在の観光協会の前身にあたる組織です。さらに愛宕山には倶楽部や博物館が建設され、有馬の観光地としての整備が進められました。

 05(同38)年には、資本金3万円で日本初のバス会社とされる「有馬自働車株式会社」が設立され、有馬・三田間の運行を開始します。当時は「自動車」ではなく「自働車」と表記されていました。しかし車両の故障が相次ぎ、経営は難航し、会社はわずか1年ほどで解散してしまいます。先進的な試みでしたが、時代を先取りしすぎていたのかもしれません。

 現在の有馬温泉名物である炭酸煎餅が誕生したのは08(同41)年のことです。そして10(同43)年には、箕面有馬電気軌道株式会社の三田発電所から送電が始まり、有馬町には約2千灯の電灯がともされました。温泉街にも近代化の波が押し寄せていたことが分かります。

 この頃の有馬温泉の宿泊施設には、「旅籠(はたご)」「自炊宿」「木賃宿」がありました。旅籠は現在の旅館にあたり、1泊2食付きで上・中・下の等級に分かれていました。部屋は貸し切りで、相部屋ではなく、客室係が給仕を行っていました。

 一方、自炊宿では席料が定められ、宿泊者が自ら食事を用意します。枕や布団、火鉢、ランプなども料金を支払って借りる仕組みでした。

 当時の宿泊料金を見ると、一等旅館は1泊2円、外国人向けは同3円でした。明治30年頃の日雇い労働者の日給は30~50銭程度だったといわれています。当時の1円を現在のお金の価値に換算すると、一等旅館の宿泊料は数万円になると思います。また、入浴料は10銭、特別浴室は20銭だったので、特別浴室は5千円以上といえるでしょう。

 こうして見ると、有馬温泉は明治時代から高級温泉地として知られていて、「有馬は昔から高かった」と言われるのも、あながち間違いではないのかもしれません。(有馬温泉観光協会)