安倍晋三元首相が奈良市で演説中に銃撃され死亡して1年がたつ。事件の重い教訓を生かそうとしない岸田政権の姿勢が明らかになった。

 政府は反対意見が根強い中で実施した安倍氏の国葬の記録集を来月にもまとめる。有識者が指摘した問題点は記載せず、国葬の実施基準も定めない。誰を対象にするかは時の政権の裁量に委ねるという。

 一周忌を機に一連の問題に幕を引く狙いだろう。だが記録集は岸田文雄首相が国葬前に表明した「しっかりした検証」には値しない。政府が投げ出すのなら、国会で第三者を交えた検証を続けるべきだ。

 政府が昨年実施した有識者ヒアリングでは、法的根拠の曖昧さや合意形成の努力不足、約12億円に上った国費支出などに批判が続出した。一政治家への弔意を求める国葬自体が認められないとの意見もある。

 半世紀前の吉田茂元首相の国葬でも同じ論争があった。不毛な対立を繰り返さないための検証作業であり、恣意(しい)的運用に歯止めをかけるための議論だったはずだ。時間が経過し国民の関心が薄れるのを見越したように、問題にふたをしようとする政権の姿勢は看過できない。

 なぜ安倍氏が狙われたのか、事件の背景に迫る取り組みも乏しい。山上徹也被告(42)は、自身の家庭崩壊の原因となった世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と、3代にわたり密接な関係があった安倍氏に矛先を向けたと供述している。

 だが首相は安倍氏と教団に関する調査を拒み続けている。自民党は教団との関係断絶を宣言したが、党としてチェックする手だては定かでない。教団の教義が政策決定に影響したかどうかの検証も不十分だ。

 「聞く力」を掲げて始動した岸田政権だが、重大な政策決定で国民への説明と国会での議論を軽視する手法が目につく。防衛力の強化、原発回帰への転換と並び、国葬執行はその典型と言える。異論を封じ、数の力で押し通す「安倍政治」の負の部分を検証せず、自らも変わろうとしない首相の姿が政治不信を一層膨らませるのではないか。

 岸田首相も今年4月、和歌山市で演説中に襲われた。動機は不明だが、容疑者の男(24)は選挙制度に不満を持ち、事件前に国に賠償請求訴訟を起こしていた。

 どんな理由であれ、暴力は正当化できない。自由な言論や選挙で政治を動かすのが民主主義である。暴力で社会に影響を与えようとする事件が続く背景に、理不尽な現実を解決しない政治への諦めや絶望があるとすれば深刻だ。政治の役割とは何か。事件が突きつけた問いに危機感を持って向き合わねばならない。