理屈は正しいはずなのに、なぜか聞いている側が疲弊していくような論理があります。理系・文系という分類を絶対的な価値基準にすることで、家族の進路や適性にまで優劣をつけてしまうケースです。一見もっともらしい主張でも、使いどころを間違えれば、ただの押し付けになります。家庭内で起きたある父親の言動から、合理性の正体を考えます。
■「世の中は理系が動かしている」が口癖の夫
東京都在住Oさん(40代)の夫は国立大学理系学部出身で、日頃から「文系はバカ」「社会は理系が回している」と繰り返しています。本人はそれを事実に基づく冷静な分析のつもりで話していますが、問題はその理屈が家庭内でだけ強く適用される点です。私立大学文系学部出身のOさんはもっぱらその対象とされていました。
Oさんが仕事や人間関係の悩みを相談すると、「感情論は意味がない」「数字で説明できない話は議論にならない」と切り捨てます。会話は常に検証と反証の形式が求められ、気持ちの共有という余地がありません。夫にとっては建設的な態度でも、受け手にとっては尋問に近い時間になります。
次第にその姿勢は、子どもたちが大きくなるにつれ教育方針にも及んでいました。
■得意科目まで修正対象にされる娘
小5になる娘は、中高一貫校入学のため現在中学受験塾に通っています。月例テストでは国語と社会の成績が安定しており、読解や記述を評価されるタイプです。学校では読書感想文で学校代表に選出され、区の冊子にも掲載されたことも数回ありました。しかし夫はそれを喜ぶどころか、「理系科目が弱いのは致命的」「このままでは将来困る」と繰り返しました。
ある日、塾の面談で、「文章構成力が高い」「国語の記述が模範解答のよう」と娘が評価されていることを、Oさんは帰宅した夫に伝えると、夫は「それは趣味の話。将来の市場価値とは別なんだから」「数学ができないと生きていけない」「事実、理系の学校が伸びている」と返されたそうです。家庭の空気が凍ったとOさんは振り返ります。
夫は理系進学ルートの資料を並べ、「ここから選べば間違いない」と説明を始めました。子どもが「歴史の勉強をもっとしたい」と言うと、「それは食べていけない分野だ」と即座に否定したといいます。
娘の個性を伸ばすどころか、適性の確認ではなく矯正計画になっていました。
■合理性のはずが、前提条件が抜けている
夫は一貫して「論理的に正しい選択」を主張します。しかし論理には本来、前提条件があります。何を目的にするのか、誰の人生なのかという土台です。
子どもの満足感や興味、継続できる力を無視したままの最適化は、計算式として成立していません。適性を無視した進路は、途中で行き詰まる可能性が高いからです。好きでもない分野で努力を続けることは、数字ほど単純ではありません。
しかも夫自身は、職場では部下の個性を尊重していると言っています。ところが家庭では「正解ルートは一つ」と断言します。適用範囲が都合よく変わるロジックは、もはや客観性を失っています。
■人の意思を無視する判断は、本当に合理的か
効率や再現性を重視する姿勢は重要です。しかし、それは対象がものや数値である場合に強みを発揮します。人間の進路や幸福度は、同じ計算式では扱えません。
Oさんは言います。「合理的と言いながら、本人の意思だけは計算から除外している。それがいちばん非合理に見えます」と。
理系か文系かという分類よりも先に、尊重すべき前提があります。それは、その人生の主語が誰なのかという点です。そこを外した瞬間、どれほど整った理屈でも、ただの押し付けになってしまいます。
(まいどなニュース特約・松波 穂乃圭)
























