「神戸に店を出すママさんなら、あのビルにあこがれるのではないですか」。洋酒メーカー担当者が、そんなふうに話す三宮の「パレ・ド・北野坂」に八月上旬、一軒のクラブが戻ってきた。
地下一階で再開したクラブ・花屋敷。十を超える祝いの花束が店内を飾るなか、着物姿の青木葉子さんは「七月一日で、二十周年だったけど、一カ月遅れやね」と笑った。
九階建てのビルには、震災前、六十四店が入居していた。喫茶店、レストランを除き、テナントはすべてスナックとクラブ。神戸で最大規模だった。修復工事は地下から順次進んだ。
花屋敷はUターン組だ。震災後五カ月間、大阪・北新地で店を出していた。
「阪神間のなじみ客が多く、何とかやって行けると計算していた。でも、ようけ来てくれたのは開店した三月だけ。あとはじり貧でね」と青木さん。五十平方メートル足らずの店は、クラブには物足りなかったのかもしれない。
それにも増して「神戸の客はやっぱり神戸で飲む」と思い知る。三宮で再開する店が増えるにつれ、客は神戸に流れ、Uターンを決意したという。
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兵庫県内最大の三宮の歓楽街は、一般的に、北は山手幹線、南は阪急高架沿いのサンセット通、東はフラワーロード、西はトアロードに挟まれた地域を指す。かいわいに約四千の飲食店がひしめいていた。
八月までに再開にこぎ着けたのは約二千店。ゴールデンウイークまで再開ラッシュが続いたが、ビル修復が一段落し、全壊ビルの再建が進まない今、動きもスローダウンしたという。
「力のある店は、ほとんどオープンしてしまっているのでは」と、ビールメーカーの担当者。「もともともうかっていたのは全体の二、三割。三分の一は苦しく、残りはトントン。震災をやめるきっかけにしてる店も多いようです」と話す。
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十月に全館オープンする「パレ・ド・北野坂」は、テナント全体の三割近く、十七店が移転や閉店を選択した。
最上階にあったクラブ「山本」の山本洋子さん(43)は今、東門街から少し東のビル一階でスナックを開いている。
「北野坂」に店を開いて十五年、徐々に借り増しし、九階全フロアを占める高級クラブまで上り詰め、今のスナックが入るビルも手に入れた。「いい時期も、悪い時期も経験した。月に数千万円売り上げた時も、数百万円持ち出したこともある」
バブル景気がはじけた後は客もホステスも減り、山本さんは「引き際だった。最初のスタートからやり直すことにした」と話す。
飲み屋の集積が、客を呼び、さらに飲み屋が集まる。そこにまた客の足が向く。この循環で三宮の歓楽街は発展してきた。東門街から生田新道、北野坂周辺と広がってきた。
震災後、飲食ビルの賃貸料は流動化している。ホステスの日給も上がった。不況に震災の追い打ち。夜の街に淘汰(とうた)の波が押し寄せる。
「この世界は新陳代謝が激しいが、その分意欲のある人が多い」と、地元の不動産業者。山本さんは「私のそろばん勘定では、まだだめだけど、ビルが建ち、街が戻るのを見ながら、じっくり次のクラブの構想を練るわ」と、再起の決意を秘めた口調で話した。
1995/8/30