元町五丁目から旧居留地へ。引っ越し荷物を運んだのは牛車だった。一九五三年当時、社員は七人。「トラックで運ぶ荷物もなかった。前の店はトイレも近くの三越を借りていた。これで『お客さんに来てもらっても恥ずかしくない』とホッとした」と、太田敏郎会長(68)は言う。
それから四十二年。能率風呂工業は震災の日まで、旧居留地のシンボル、明海ビルで歴史を刻んできた。社名はノーリツに変わり、上場を果たし、社員は二千八百人になった。
「天井は高いが、家賃は安い。神戸の異国情緒に包まれ、愛着もひとしおだった」と太田会長。「そりゃ銀行から自社ビル建設の誘いもあった。でも、そんな気になれなかった。本社はここで十分。カネがあったら研究と工場につぎ込んできた」
明海ビルの全壊でノーリツは一時、明石工場に本社機能を移す。そして二カ月後、本社が戻ったのは、明海ビルから五百メートル北東の新築ビルだった。
本社の百五十人が入るフロアは千九百平方メートルと以前の八割強に減った。しかし、OA機器の省スペース化を一気に導入、かえって広々となった。「企業として、建て替えを待っているわけにはゆかない。ここで再スタートを切る以上、明海には戻らない」。移転に併せたインテリジェント化は、旧ビルへの思いを断ち切る経営者の意気込みだった。
◆
不安定の中の安定・と言われる。震災は三宮、元町のオフィス街から二十万平方メートルを超すスペースを奪ったが、神戸の空き室は今でも二万平方メートル強。移転を強いられた企業やテナントは、空き室があったビルなどに収まり、大きな動きは止まった。
「結果として長年の懸案だった『小さな本社』が実現できた」。ゴム総合メーカー・バンドー化学は、「営業は大阪に残す」と決断した。
本社は三宮駅南のビルで被災、OA機器部品を手がけていた兵庫区の神戸工場も座屈した。売り上げの六割を占めるコンベヤーベルトなどの営業部門は、大阪駅前第一ビルにあった大阪支店に一時避難。三月にはその隣室を借り増して正式移転した。
新本社となった三宮の新築ビルに戻ったのは震災前の人員の三分の二、九十人である。
「営業は顧客に近づかないとダメだ、と痛感した」と雀部昌吾社長(66)。現場に近い分、大阪では三十分の空き時間でも、営業に回ることができる。会社を訪れる客も三倍になった。「予想以上の成果だった」
◆
各企業、支店が進める店舗や組織のリストラ。両社はともかくも本社機能を神戸に戻した。
「発祥の神戸以外、本社地は考えられない」と口をそろえるが、一方で、販売網は東京、大阪にシフト、生産拠点も海外へと拡大。三宮オフィスに残るのは主に統括、管理部門だけとなった。
太田、雀部の両トップは昨秋、ともに神戸商工会議所副会頭に就任した。震災で、企業人の眼はさらに厳しさを増した。
「復興の動きが鈍い。総花的な取り組みを重点志向に変えないと、復興の歯車は回らない」「地場の産業、そして新しい産業を育てる仕掛けがいる。しっかりやれよだけでは企業はついて来ない」
1995/8/27