目が覚めたのは午前五時四十六分の少し前だった。線香を供えると、ちょうど一年前の記憶が頭の中をめぐった。
十七日、三島昭子さん(59)=仮名=は、妹=当時(47)=の遺影を持って、神戸市の合同追悼式に出席した。写真には白と黒のリボンを今もかけている。心の区切りはなかなかつかない。
「なぜ、あんな家に住まわせたのだろう」
妹は古い文化住宅に住んでいた。老朽賃貸住宅の倒壊は、多くの死につながった。
新しい生活が始まったばかりだった。妹は、我慢を重ねてきた夫との生活に見切りをつけ、大学生の長男を連れて家を出た。一昨年三月、昭子さんを頼って神戸に来た。
新しい住まいを探した。マンションは最低でも八万円程度。「離婚が決まるまで生活は細く、長く」と、その文化住宅を訪ねた。古かったが、内装はきれいで清潔に見えた。家賃三万円は昭子さんが負担した。
親子二人の生活が始まった矢先、妹は肝炎で倒れた。退院したのは昨年一月十四日。十七日は離婚のための裁判の日だった。
震災直後、近くまで駆けつけた昭子さんは、途中で足がすくんだ。一帯は古い木造住宅が軒並み崩れていた。二階建ての文化住宅は、一階がなくなっていた。長男は足のけがで済んだが、妹は遺体で見つかった。
がれきとなった住まい。使われていた板の薄さを目にし、悲しみが募った。「マンションに住んでいたら命は助かったのではないか」。悔いが残る。
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震災の生と死の問題に取り組む医師や看護婦らの集まり「神戸生命倫理研究会」は、仮設住宅の約千世帯の聞き取り調査を行った。その結果によると、被災住宅のうち築三十五年以上が約五割。多くが借家だった。家賃は平均二万九千六百円。耐震基準が大幅改正された一九八一年以降の住宅は六%しかなかった。
「かりに、現行の法基準を満たす住宅ばかりなら、死者数は一ケタ違っていたのではないか」
研究会代表を務める額田勲・みどり病院院長は、集計されたばかりの数字をにらんで話した。命を守るのに十分な住宅はあまりに少なかった。
震災前、神戸市内には、築三十五年以上の住宅が七万八千戸あり、市内の住宅全体の一四%を占めた。既成市街地では、長田区三二%、兵庫区三〇%など、古い住宅が集中して残っていた。
戦前の港湾、造船業などの発展、戦後の高度成長で、労働者を受け入れるための木造長屋やアパートが大量に造られた。そんな住宅が残る地域を震災が直撃した。
「老朽住宅は大阪、京都、東京などにもある。同じ惨事はどこでも起こり得る」と、建築関係者は口をそろえる。
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昭子さんは「結局、妹はお金がなかったから死んだ、ということになってしまう。そう思いたくはないのだが」と話す。
家賃の安い公営住宅がもう少し手に入りやすければ、古い家に住まわせることはなかった、とも考える。
死因を探る調査を行った額田院長は、死者を減らすための防災対策は「住宅問題に尽きる」と指摘。二十三日に神戸・ポートアイランドで開く報告会で問題提起する。
しかし、なぜ、大量の老朽住宅は建て替えられることなく残っていたのだろうか。
1996/1/21