午後四時五十二分。震災から約十一時間後、兵庫県津名郡北淡町の救出・捜索活動はすべて終わった。
「消防団は本当によく頑張ってくれたと思います」。同町野島の井筒よし子さん(46)はぽつりぽつりと話した。昨年末、仮設住宅での一周忌は家族四人でひっそりと済ませた。
築七十年の食料品店兼住宅。一階には夫啓二さん(46)、母ミツ子さん=当時(74)=、三男利茂君=同(8つ)=が寝ていた。
二階にいたよし子さんは、がれきの下からの啓二さんの叫びを聞いた。「利茂が冷たくなっていく。助けを呼べ」。しかし、周りにはだれもいなかった。母が、よし子さんの名を呼んだ。その声も消えた。
知人や消防団員が駆け付け、三時間後に啓二さんが無事救出された。三男は助からなかった。母の救助は午後になった。建設機械も使い、夕方に遺体で見つかった。
町内で最後の捜索活動だった。
生き残ったことがつらいと思う。
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「消防団と住民との密着した連携と信頼関係が犠牲を最小限に食い止めた」
北淡町の報告書は記している。
震源に近く、死者は三十九人に上ったが、半日で行方不明はゼロになった。地域を熟知する消防団員は、だれが、どの部屋にいるかが分かり、素早い救出活動につながった。プロパンガスの消火訓練などで火災は一件しかなかったという。
コミュニティーが威力を発揮した・。淡路と神戸の差とさえいわれる。
神戸市東灘区の人口に対する死者の割合は〇・七%、北淡町は〇・三%。北淡町は低いようにもみえる。
本当に淡路では犠牲を少なくできたのか。その理由は。専門家らに同じ質問をした。
だれもが救出活動を高く評価した。しかし、「犠牲者が少ないかの比較は難しい。住宅の壊れ方、救出者の追跡調査など、詳しいデータがないと分からない」との答えが多い。
「家の違いがあったかもしれない。都市部に比べ、淡路はしっかり造られていたのでは」「神戸の狭小宅地では軒を連ねて壊れた。宅地の広い淡路とは犠牲者数に差はあるだろう」。そんな意見もあったが、神戸と淡路の両方を調査した人には出会えなかった。
遺体の状況はどうだったのか。北淡町で検案した医師によると、三十九人の死者のうち三十人が圧死・窒息死。三十四人が即死に近い状態だった。救出されてから息を引き取った人は一人。
診療所医師は「救出者では命にかかわる患者はほとんどいなかった」と証言した。
直後の圧死・窒息死。生と死の両極端に分かれた被災者。神戸の「死」と共通するものも少なくない。
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北淡町でも被害の大きかった富島地区は約二千五百人の住民のうち二十六人が亡くなった。
「百人に一人が死亡した。百人目が亡くなったが、九十九人目、九十八人目という紙一重の人もいたはずだ。助かった人を調べる必要がある」。地震の人的被害を研究する山口大の太田裕教授は指摘する。
地元医師らと地区の調査を進める。地震の時、どこにいたか、生き埋めになったか、だれに救助されたか、どんな家だったか…。
「二千五百人のうち二十六人が亡くなる経過を知りたい。二十六人を減らすため、どこに力を入れるべきかが分かるはずだ」
本格的な調査にようやく手がついた。
1996/1/14