■<再建支援法>公的救済 位置づけ
阪神・淡路大震災から四年半。国や社会の仕組みを根底から問いかけた震災の教訓を探る「震災からのメッセージ」第二回は、節目の七月十七日に合わせ、最も身近で道のりが険しかった生活再建支援の過程を検証する。一面「『支援』ということ 復興へ21部」のスタートと連動した特集は、支援金や復興基金など暮らしを支えるお金の仕組みに焦点を当てる。
被災地から国のあり方を問う運動は「被災者生活再建支援法」という新たな枠組みを生んだ。災害での公的支援を初めて位置付けた同法は、日本の災害行政の転換点と言える。善意の義援金に頼るだけでは再建が進まない現状を前に、私たちは仕組みをつくることから始めねばならなかった。自助努力の限界を政治が認め、法が成立したのは震災から三年四カ月を経た昨年五月。支給の少なさや対象、基準の問題を指摘する声も残るが、市民が声を上げ、行政や議会を巻き込み実現にこぎつけた経緯は、政策決定システム上も歴史的な出来事だった。「市民」「行政」「国会」に分け、同法成立までの経緯と立ちはだかった壁を振り返る。(敬称略)
■▼市民 行政・議会巻き込む 批判残した支給額
「国が被災者個人の財産を補償することはできない」。災害行政での政府の姿勢を前に、被災地では震災の年の九五年から運動が始まった。春には県保険医協会などの復興県民会議が被災者救済を求め、兵庫県なども災害共済の設立を提唱した。こうした流れのなかで、作家の小田実や弁護士、市民のグループが「生活再建援助法案」を発表したのは九六年五月だった。
その後、兵庫県や知事会の動きと並行し、政治の動きが加速したのが九七年。五月、公的支援を求め小田らが提唱した「災害被災者等支援法案」(市民立法案)が超党派で参院に提出された。
災害弔慰金法を改正し、一定所得に満たない世帯で、住宅全壊世帯に最高五百万円、半壊世帯に同二百五十万円を支給し、震災にもそ及する。最初の案発表から一年がたっていた。市民立法案はその後、審議未了、廃案を逃れたものの、二つの国会でたなざらしとなった。
市民立法案には「二つの転機があった」と弁護士の伊賀興一は言う。
一つの局面は九七年四月。住宅再建共済を掲げた県が、生活再建支援の基金制度と合わせた「総合的国民安心システム」を提案。知事と会った同弁護士は中堅所得層まで対象を広げた行政の動きに、「これでできたと思った」。もう一つは、現金支給を拒んできた自民が基金案に乗り出したことだ。
国会での一本化の経緯のなかで、市民立法案は結局、廃案。成立した再建支援法は対象を絞っていたが、それでも伊賀は「自助努力の原則を転換させた。生活基盤の破壊に公的義務の存在を認めさせた」と評価。「市民の政治参加という意味でも歴史的」とする。
小田らのグループは今、再び「生活基盤回復援護法案」を目指し活動を始めた。再建支援法では不十分とし、国の責任の明確化や災害援護庁設置などを求め、最高五百万円の生活基盤回復援護金や、住宅・事業再建の貸し付けを目指し、秋の国会提出を目指す。
▼行政 2500万署名に動く 中央官僚の抵抗激しく
行政の動きは震災の年の秋。兵庫県は九五年十月、全国の全世帯が毎月千円を拠出し住宅再建に充てる共済案を策定し、政府や全国知事会に訴えた。九七年には県や日本生協連、全労済協会などが二千五百万人の署名を全国で集めた。
同生協連常務理事の布藤明良は「生活再建の仕組みを考えるべき政府が動かず、法成立まで何度も混乱した」と振り返る。
九六年十月、国土庁長官に就いた伊藤公介は県の共済案に興味を持つ。が、省庁の議論は進まず、国民負担の多い共済案の衣替えを決意。九七年二月、防災問題懇談会答申を生かした基金方式を県や知事会に持ち掛けた。
兵庫県知事の貝原は四月、基金での支援金と共済から成る「総合的国民安心システム」を提案。伊藤は「全国の知事に直接電話し、協力を求めた」というが、当時の知事会幹部は「国土庁の官僚は冷めていた」と見る。
一方、震災直後から被災者支援を検討した知事会は、自治体の基金で五十万円を無利子融資する案を練っていた。兵庫県提案と調整を重ね、九七年七月には支援金制度を国に求めた。
これを受けた自民党の小委員会が法案を練ったが、できた素案は知事会案より給付世帯が減り、基金も自治体だけの出資となっていた。大蔵省などが抑制した結果だった。
知事会は反発したが、自民の小委員長・柿沢弘治は「小さく生み、育てれば」と主張。兵庫県幹部も全国を説得に回った。
九七年十二月、知事会はようやく自民小委の素案に同意。国会上程への党内手続きが始まった。が、今度はここで省庁OBの議員の抵抗に遭う。
▼国会 野中裁定で妥協
九八年に移ると、一月に政府が、全壊で年収三百万円以下の世帯に五十万円を支給する案を示した。これには自民小委や知事会、兵庫県が抵抗し、つばぜり合いが続いた。大蔵省などを相手に両者に妥協を迫ったのは当時の自民党幹事長代理・野中広務だった。
知事会案を小さくしたような政府案について、兵庫県理事の和久克明らは「落とし穴だらけ」と指摘。基礎控除などを差し引いた後の所得を支給基準にするのでなく、差し引く前の年収を基準にした点などを批判した。
これを聞いた社民党党首の土井たか子が野中と会い、仲介を依頼。野中は、六十歳以上で一定年収の世帯に五十万円を上積みして百万円にする一方、基準は「収入」で行くことで間を取った。
最後の関門は、参院に提出された「災害被災者等支援法案」(市民立法案)、「震災被災者支援法案」(野党案)の二案と、政府・自民が上程を予定する「被災者生活再建支援法案」(再建支援法案)の一本化だった。九八年四月の通常国会後半だった。
市民立法案は震災へのそ及も含む恒久法で、全壊世帯などに最高五百万円を支給。野党案は震災に限定した特別措置法で、所得激減世帯に最高二百万円を支給。再建支援法案は年収五百万円以下の世帯に最高百万円を支給する。違いは支給額だったが、震災被災地への対応では一致。参院選が間近に迫り、「今を逃せば、公的支援法は二度と無理」との認識も一緒だった。
当初から市民立法案を支持してきた社民党参院議員の田英夫は「自民党が法案を作ったこと自体、大きな譲歩」と見て、譲歩のシナリオを描き始めた。非公式協議では震災について、そ及はしないが、付帯決議で「相当措置をする」との趣旨が盛り込まれた。
社民と野党は支給基準の引き上げや、全壊店舗を含める修正案を提示。しかし、自民は最後まで自民案に固執、最終的には「今国会での成立を優先させる」との認識が大勢となり、共産党などを除く超党派の議員立法で共同提案が決定。被災者生活再建の公的支援に初めて踏み出す法の成立となった。
1999/7/17