震災一年前の一九九四年一月十七日。ロサンゼルスでM6・7のノースリッジ大地震が起きた。
翌朝のロサンゼルス・タイムズ。「FEMA(連邦危機管理庁)への申請」と書かれた情報欄に目が止まった。通話無料の電話番号の下に「三十分で申請は済む。一週間から十日で調査官が訪問します」とある。家を失った人たちが生活再建の支援を受ける方法だ。
FEMAのノースリッジ現地事務所を訪ねた。スタッフから「THIS IS FEMA」という資料を手渡された。
個人支援、公共支援、防災などの一覧が並ぶ。個人支援は十四項目。うち住宅支援は家賃補助(最長十八カ月)、住宅の修理費支給(一万ドル以下なら全額)などからなる。支援額は決して多くないが、平常時からプログラムを用意している分、対応は早い。
大統領直轄のこの機関は七九年に発足した。阪神大震災後、日本でも一躍、有名になった。自然災害を原子力施設の事故やテロなどと同じく、国家の危機ととらえ、被災者の個人支援にも公費を投入する。
歴史は浅く、ノースリッジ以前の災害では十分に機能を発揮できず、しばしば酷評を受けたが、失敗を重ねながら、かたちを整えていく。訓練やデータの更新を欠かさず、危機への臨戦態勢を取る。
◆
九二年、ハリケーン・アンドリューがフロリダ州を襲ったとき、民間組織によって「ワン・ストップ・センター」が生まれた。住宅、雇用などあらゆる情報窓口のセンターを被災地に幾つも設け、連邦政府や州職員らが支援策の説明、手続きに当たる。被災者は一カ所に行くだけですべてが済む。これが、FEMAの「災害申請センター」に引き継がれた。
阪神・淡路の被災地ではどうだったか。道路、交通網が寸断する中、被災者はやっとたどり着いた役所で列をつくった。その揚げ句、役所から役所へ、窓口から窓口へと振り回された。
震災四年半を経て、反省の声が自治体サイドから聞こえてくる。
兵庫県生活復興局は「住宅、教育、仕事などのメニューを組み合わせ、国、県、市など、あらゆる支援策を一つのパッケージで示す。被災者に選択しやすい形で提示することが必要だ」。同局幹部は「そのためにも、日ごろの窓口業務をもっと重視するよう改めなければ」と自戒を込めた。
◆
今なお被災者支援に影を落としているのが、震災直後、当時の村山首相が示した「個人補償はしない」との見解だ。大蔵省を中心とする中央官僚の意向を受けた政府見解は、被災地の自治体が取り組んだ公的支援をしばった。支援法成立に至る国会での論議すら、その影響下にあった。
今年三月、驚くような出来事に直面した。地域振興券の配布である。直接支給の是非、納税者への平等な恩恵、財源確保など、支援法を小さく閉じ込めた論議を簡単に飛び越えた。
政策の是非はともかく、政治の力を感じた。同時に、震災ではなかなか動かなかった政治を思った。
連載の最後に、FEMA報告書の翻訳版を出した渡辺実まちづくり計画研究所長の言葉を紹介したい。
「アメリカでは自然災害は個人の責任ではないと考える。基本的な生活基盤の回復には税金を使う。個人の努力はそれから。このコンセンサスを得るために、アメリカ社会は長い間努力を重ねてきた」
公共と個人、どちらを優先するか、日米の考え方の違いもある。が、毎月のように災害が発生する国で築き上げられた被災者支援のあり方は、大震災を経験した私たちの胸に響く。=おわり=(22、23面に関連特集)
1999/7/25