大野裕之さん
大野裕之さん

 高校2年生の時、チャップリンの妻ウーナが死去した。年末の「映画界十大ニュース」に淀川長治先生はそれを9位に選んだ。妻は映画人ではないから映画界十大ニュースではない。でも、チャップリンを敬愛する先生には大事件なのだ。僕は、万一将来先生にお会いすることがあれば「同じぐらいチャップリンが好きです」と言おうと思っていた。

 「万一」は1997年12月にやってきた。京大4回生だった僕はチャップリン映画祭を企画してインタビューを申し込んだ。先生が長年住まいとしていたホテルのスイートに伺った。「お茶飲みなさい。遠慮せんと。僕はこのホテルのヌシみたいなもんやからね」。お話の途中に電話がかかってきて「ナニ? 取材? 今、外国から5人映画監督が来て大騒ぎだからそんなの無理だよ」と学生しかいないのにちゃめっ気たっぷりな噓(うそ)。

 「神戸港の船の上でチャップリンが戻ってくるのを待ってたの。昭和11年3月。港は寒い。もうすぐチャップリンと会うんだ。見るとカモメが飛んでるの。夢かと思ったね」。最後に花束をお渡しすると「綺麗(きれい)だね。握手しましょうね。来年はもういないからね」。噓だ、あと10年は現役だと思った。

 と、部屋を出て、あのことを言い忘れたことに気づいた。あああ。ずっとお伝えしたかったのに。まあええか。僕の思いなんて先生は興味ないやろし。

 ……数カ月後、先生の新著の後書きに「最近、チャップリンは若者に人気がある。こないだ京都の学生さんが」と僕のことが書かれていた。言わなくても伝わる、それが映画の愛、チャップリンの愛なんや。それが先生の生前最後の本になった。あの時受け取った愛を若い世代に伝えていきたい。

【おおの・ひろゆき】1974年大阪府生まれ。京都大在学中に「劇団とっても便利」を旗揚げ。脚本・演出家、日本チャップリン協会会長。著書「チャップリンとヒトラー」でサントリー学芸賞。