読者からの投稿作品を紙面で掲載する「神戸新聞文芸」のエッセー・小説部門で、5月に入選した作品を紹介します。
◇ ◇
球体 二宮武志・作
本当に雨が降ってきた。北条の得意げな顔が浮かんで、胃がキリキリと痛んだ。傘を持ってきているのは北条だけだ。
僕は居酒屋の店先に立っていた。金曜の夜だけあって、歓楽街の人通りは絶えない。雨に降られても、みんなそれすら楽しそうだ。
新入社員の歓迎会だった。
まだ名前も覚えていない新入社員に対し、北条は僕の失敗談を面白おかしく披露した。場は大いに盛り上がり、新入社員の緊張もすっかりほぐれたようだ。
僕はぎこちなく笑っていたのだが、気がつくと引きつった笑顔のまま、表情が固まってしまっていた。きつ過ぎるマスクでもさせられているように、息が苦しかった。
何だか身体が変だ、と思って急いで店の外へ出たのだった。
会社のお局様(つぼねさま)にイジメられる冴(さ)えない男、北条と僕のことだ。よくある話だ。よくあるはなし。
呼吸を整え、落ち着きを取り戻したあとも、長いこと店の外にいた。霧のような雨が髪や肩を濡(ぬ)らしていた。
そろそろ戻ろう。と思うのだが、体が動かなかった。脇の下をすーっと汗が流れ落ちていった。氷を飲み込んだように、身体の真ん中が冷え切っていた。戻れ。戻るんだ。全身の力を振り絞って振り向く。店先の傘立てに刺さった北条の傘が目に入った。ぐらりとめまいがして、しゃがみ込んでしまった。
立てない。重症だ。早く戻らないと、またネタにされる。何をするにしても遅い、だろうか。いや、席を外していたことに気付かなかった、あたりだろうか。くそ……。
ふいに、女性の柔らかい香りがした。パンツスーツの見知らぬ女性が、傍らにしゃがみ込んで、背中をさすってくれていた。
「大丈夫ですか?」。僕をのぞき込んで言う。僕と同じ三十前後だろうか。
「少し、気持ち悪くて」
「ここで吐いたら良くないかも」
「吐き気は、大丈夫。呑(の)んでないんです」
「呑んでないんですか?」
「ちょっと、つらい飲み会で」
えー? わざとらしいが親しみやすい驚きの声をあげる。「私もちょうど、ちょっとつらい飲み会だったんです。やっと終わったところ。私は逆に、たくさん呑んだけど」
彼女は笑ったが、僕はうまく笑えなかった。彼女はそれ以上何も言わずに、優しく背中をさすり続けてくれた。
僕は辛うじて「すみません」と言った。震える声で「ありがとうございます」と呟(つぶや)いた。涙が出そうになったが、ぐっと堪えた。
僕の左側で背中をさすっていた彼女が、右側に移動した。さする手を左手に替える。右手が疲れたのだろう。彼女は何も言わない。ただただ背中をさすってくれていた。
思わず嗚咽(おえつ)が漏れてしまった。僕はとうとう我慢出来ずに、泣き出してしまった。
僕は北条の理不尽さを話した。声を詰まらせながら、途切れ途切れに言葉を継いだ。北条への気持ちを他人に吐露するのは初めてだった。独りよがりで、子供じみた愚痴に聞こえたかもしれない。それでも彼女は、黙って頷(うなず)いてくれた。
溜(た)まっていたものを吐き出してしまうと、恥ずかしさがこみ上げてきた。大の大人がべそをかいてぐずぐず言っている。何をしているんだ僕は。
「それで、そのどぎつい色の傘が、お局様の傘?」。傘立てに視線をやりながら、彼女は訊(き)いた。
「そうです」傘立てにはワインレッドの傘が刺さっていた。
彼女は不敵に笑った。立ち上がり、北条の傘を手に取った。腕まくりをする。肌の白さが目を引いた。
華奢(きゃしゃ)な腕で、彼女は傘を真っ二つに折り曲げた。それなのに、骨組みは折れなかったし、生地も破れなかった。まるで飴(あめ)細工のように、傘はぐにゃりと曲がったのだ。
さらに傘を折りたたみ、粘土のようにこね始める。傘は見る間に小さくなっていった。手のひら大になった傘を、さらに丸めてゆく。傘はピンポン球サイズまで小さくなった。
「じゃーん」
彼女は傘だった球体を人さし指と親指でつまみ、掲げて見せた。赤紫色した大粒のブドウのようだった。ささくれひとつない。
「少しは、スカッとした?」
「……それより、きれいだなあと思って」 僕は球体に目を奪われていた。何かを美しいと感じるなんて、そんな感情、忘れていた。
「まあ、それも良し」。彼女の細く白い手が僕の靴へと伸びる。「じゃあ次は、靴脱いで」
ほとんど奪い取るように、僕の革靴を脱がせると、傘と同じように丸め始めた。
次の球体もあっという間に出来上がった。それは革靴の黒色に、靴底の茶色を練り込めたマーブル模様だった。やはり非の打ちどころのない完璧な球体だった。
「私は、あなたからしか話を聞いていないから。疑っている訳ではないけど、でも、これで、あなたとお局様はおあいこ」
「なるほど」
僕は笑った。これまでずいぶんと笑っていない気がした。彼女も笑っていた。
「そろそろ、行こうかな」。彼女が言った。「これはプレゼント。じゃあね」
僕にふたつの球体を手渡すと、彼女は小雨の降りしきるなかを駆けていった。濡れた路面にネオンが映り込んで、きらきらと輝いていた。
それ以来、彼女には会っていない。
球になってしまった北条の傘は、傘立てに転がしておいた。傘がなくなっていることで一騒ぎあり、転がっている球がどうも傘のようだ、ということでまた一騒ぎあり、ずっと店の外にいた僕に嫌疑の目が向けられるが、どうしたら傘を丸められるのか、誰も理解できなかった。僕がなぜ片方の靴を履いていないのか、これもまた誰も理解できなかった。
2次会を断ったのはその夜が初めてだった。
靴だった球体はいまも大切に持っている。球体を握りしめていると、北条に面と向かって文句を言えるとか、何を言われても気にならないとか、そんな変化はない。僕は会社を辞めてもいないし、北条も定年までまだ数年ある。僕と北条の構図は相変わらずだ。
ときどき、ぼんやり球体を眺めてみる。
マーブル模様から惑星を連想して、宇宙に思いを馳(は)せた。名前も知らない彼女のことを思い出して、連絡先を訊いておけばよかったな、なんて後悔した。
そういうゆったりとした時間をわざと作るようになった。ただそれだけのことだが、そんなことも出来ていなかったのだ。
あーあ、今日も仕事だ。いやだいやだ。
【にのみや・たけし 39歳・会社員 相生市在住】

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