碧梧桐の「続一日一信」記事(「日本及日本人」)と著書「子規の回想」(1944年、昭南書房、個人蔵)
碧梧桐の「続一日一信」記事(「日本及日本人」)と著書「子規の回想」(1944年、昭南書房、個人蔵)

 河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)は明治から昭和にかけて活躍した俳人。書家。同時にジャーナリスト。そして旅人。そのマルチタスクな生き方のもと、多彩な表現を試みた彼は私たちのふるさと、この兵庫県内にも多くの足跡を残した。その足跡のいくつかをたどりつつ、彼の表現の試みを追う旅に出よう。

 河東碧梧桐は愛媛の松山出身。同郷に正岡子規、高浜虚子がいる。正岡子規は兄の友だち、高浜虚子は自身の友だち。碧梧桐はこの友人たちとともにその一生をかけ、近代俳句の変革を担うことになった。作風は自由律句、無季句、さらにルビ句とさまざま変容をみせる。彼はいわば俳句界の最先端を行く存在だった。いまでは俳人たちにさえ忘れられたように見えるが、ほんとうは俳句史の中で重要な位置づけにある人物だ。

 碧梧桐が初めて兵庫の地にその足跡を刻んだのは1891(明治24)年、19歳のときではないか。東京での進学のため松山を出て航路で神戸に。そして、このときすでに全線開通していた東海道本線で上京したのではと思う。きっと僅(わず)かな不安と盛んな意気を抱えての上陸だっただろう。

 明治28年、日清戦争に記者として従軍した正岡子規が帰国と同時に入院した。それが兵庫県立神戸病院(のち、神戸大付属病院)。知らせを受けた碧梧桐は子規の母を伴って駆けつけた。子規はここで九死に一生を得るが、その看護とリハビリ生活を支えたのは碧梧桐と虚子である。食欲のない子規のためにふたりは病院の近くの畑で苺(いちご)を摘み、近所の牧場で搾りたての牛乳を分けて貰(もら)ったという。

 碧梧桐は言う。「朝、まだ日の出ない時分、露と一緒に病床へ持って行くのだった。何かしら頼もしい、病人の喜ぶ顔を見る、アアいう愉快な苺摘みは、再び経験されない尊くも潔い日課だった」(「のぼさんと食べ物」)

 当時の神戸病院は神戸花隈、モダン寺として知られる本願寺の北の方にあったという。分けて貰ったという苺畑は「病院の山手」の方と3人ともが書き残している。今の山手幹線より北のあたりだろうか。そこに苺畑があったとは今ではとても想像がつかない。

 大正に入ると大阪の大正日々新聞の社会部長に招聘(しょうへい)され芦屋に居を構えた。大正8年から同9年とわずか1年あまりの間に碧梧桐は養女美矢子を失い、続いて新聞社解散と憂き目が続く。この芦屋時代は碧梧桐には悲しく辛(つら)い時期だったに違いなく、それを支えたのは地元の俳人仲間たちだった。傷心を抱えた碧梧桐は目先を変え見聞を広めるために単身ヨーロッパに渡ることを決意する。彼の欧米滞在は丸1年に及んだ。さらにその旅路は神戸港をたってスエズ運河を抜けるのに実にひと月を要した。

 そもそも大阪は碧梧桐の妻子の実家があり、碧梧桐にとって関西は決して見知らぬ土地でもなかった。なかでも神戸の川西和露、西宮の麻野微笑子は、物心ともに碧梧桐を支えた友人である。とりわけ和露は神戸駅の近くに住んでおり、電報で急の到来を知らせては和露の宅-「和露荘」と呼ばれていた-で一服したり時によっては泊まってゆくこともあったようだ。港が近いことを考えればそれもまた至極当然の成り行きであったかもしれない。

 (俳人、甲南大非常勤講師・わたなべじゅんこ)

■初期の作品から

春寒し水田の上の根なし雲

赤い椿白い椿と落ちにけり

薪能小面映る片明り

この道の富士になり行く芒かな

から松は淋しき木なり赤蜻蛉

■ヨーロッパ・ローマにて

ミモーザを活けて一日留守にしたベツドの白く

ミモーザの匂ひをふり返り外出する

ローマの春の雨になる空よ窓にすがりて

チゝアンの女春の夕べのうしろ髪解く

     ◇     ◇

■旅人、書家としても著名

 河東碧梧桐は1873(明治6)年、愛媛県生まれ。本名は秉五郎(へいごろう)。正岡子規や高浜虚子と並び近代俳句の礎を築く。子規の後を継いで新聞「日本」の日本俳句欄選者となり、新傾向句の運動を興し、多くの仲間を得た。その作風はやがて有季定型を離れ、無季自由律、ルビを使用したルビ句へと変化し、短詩と称するに至る。

 旅行家としても知られ、多くの紀行文を残している。なかでも1906(明治39)年から第1次、09(同42)年から第2次全国徒歩旅行は有名。後にその見聞を『三千里』としてまとめた。その旅の途中に彼が広めることになった六朝風の書体は人気を博し、いまでもその書の愛好家は多い。さらに与謝蕪村ら江戸俳諧の研究にも力を入れ、能を嗜(たしな)み自ら能舞台に立つなど伝統芸能や伝統文化にも造詣は深く、一方で近代スポーツとしての登山を行うなど積極的に新しい経験を重ねた。

 37(昭和12)年2月1日、弟子たちによって奉呈された東京の新居にて病に倒れ泉下のひととなった。東京下谷・梅林寺、愛媛松山・宝塔寺に眠る。当時としては背が高くて洋装の似合う紳士だったという。日本橋のデパートに海苔(のり)を買いにわざわざ洋服で出掛けたり、妻のために着物や半襟をかってくるなどおしゃれで優しい家庭人でもあった。