1995年1月。阪神・淡路大震災以降、被災企業の支援や復旧に奔走した神戸商工会議所だが、8月30日、兵庫銀行が破綻したことで事態が急変、緊迫した対応が続く。「駆け抜けた1年」と題した記録が示す。9月1日=西村大蔵省銀行局長来所▽同8日=渡辺近畿財務局長来所▽9日=武村大蔵大臣との懇談会▽28日=兵庫銀行再建で地元出資説明会を開催し、支援を要請▽10月5日=遠藤日本銀行支店長来所。
金融危機が戦後初の銀行破綻として表出したのが被災地神戸の兵銀だった。8月30日午後6時、商議所内の経済記者クラブ。元銀行局長で頭取の吉田正輝(まさてる)が話した。「自主再建を目指したが景気低迷や大震災で資産内容が悪化し、負の遺産を穴埋めできなかった」。大阪の木津信用組合と同時破綻だった。その後、数次にわたる危機は数々の金融機関をのみ込んでいった。
■貧者の一灯
兵銀処理のキーマンは9月1日に来神した銀行局長、西村吉正だった。兵銀を消滅させた上で地元や金融界の協力を仰いで受け皿銀行をつくるというスキームを描いた。会頭の牧冬彦は経済界に呼びかけた。「震災で厳しいのはみな同じ。貧者の一灯で地域の銀行を支えよう」。集まった資本金は約709億円。金融機関や地元企業など約450社が出資に応じた。
翌96年1月、みどり銀行が開業。頭取は神戸銀行(現三井住友銀行)出身の副会頭、米田准三(96)。神戸一中(現神戸高)の1年先輩で日銀総裁の松下康雄の要請でもあった。「復興に尽くす銀行に」。しかし金融危機に翻弄(ほんろう)され続け、3年2カ月後の99年4月、阪神銀行に吸収合併され、現在のみなと銀行になった。米田が振り返る。「急速に景気が落ち込んだことに加え、不良債権の重圧もあった。松下さんや西村さんに口説かれて頭取になったのも運命でしょうな」
■埼玉りそなモデル
「県民銀行」という言葉を明確に打ち出したのは、神戸銀行出身で阪神銀行頭取、みなと銀行初代頭取を務めた矢野恵一朗だろう。98年5月、阪神銀、みどり銀の初顔合わせで矢野は述べた。「震災復興や地元経済活性化に貢献する県民銀行として認められるよう不断の努力と忍耐、知恵と工夫をお願いする」
県内に本店を置き、預金、貸出金ともにトップシェアで強い存在感を発揮する。県民銀行をこう定義すると、かつての神戸銀行、太陽神戸銀行が当てはまる。しかし90年、三井銀行と合併した時点で本店は東京に移った。
99年に生まれたみなと銀は神戸唯一の本店銀行だ。神戸銀の流れをくむ三井住友銀行傘下で進んだが、2018年、りそなホールディングスの傘下に移った。それから6年。23~25年度の中期経営計画で目指す姿として「真の県民銀行」を掲げた。モデルは埼玉りそな銀行だ。埼玉県の経済規模は兵庫県と同程度なのに対し、埼玉りそな銀はみなと銀の3倍の業容を持つ。
定量的な指標は県内のメインバンクシェアでトップになることだ。現在は三井住友銀が19・1で21年連続首位、みなと銀行は12・3%で続く。来年1月6日、事務システムをりそなグループと統合する。みなと銀行の誕生から四半世紀。真の県民銀行へ正念場の年となる。(敬称略)
(特別編集委員・加藤正文)
【みなと銀行】1999年、阪神銀行とみどり銀行の合併で誕生した。現在はりそなホールディングスの傘下。2024年3月期決算(単体)は経常利益が前期比73・9%増の83億5500万円、純利益は25・7%増の46億1300万円。兵庫県内の有人店舗数は89。