阪神尼崎駅近くの玉江橋一帯に滞留するスモッグ。大気が入れ替わりにくい冬季は発生が相次いだ=昭和39(1964)年12月15日、尼崎市東七松町1の尼崎市役所屋上から

 尼崎市南部を東西に貫く国道43号沿線を歩く。真上を走る阪神高速道路。「2階建て」の道路を大型車がひっきりなしに行き来する。排ガス、騒音、震動。臨海部の工場から排出される亜硫酸ガス、むっとするにおい、苦しいぜんそくの発作…。高度成長期の尼崎は公害の中にあった。「子や孫に青い空、きれいな空気を」。国や企業を相手に大気汚染物質の排出差し止めなどを求めた尼崎公害訴訟で力を振り絞った患者や家族の声が耳の奥によみがえる。

高度成長期、尼崎では多くの企業が煙突から大量の煙を排出していた。海沿いに関西電力の発電所が並ぶ=昭和37(1962)年4月9日、尼崎市南部上空から

尼崎南部では工場の排煙が大量に発生していた=昭和44(1969)年3月26日、尼崎上空から神戸方面を望む

国道43号上にできる阪神高速道路の着工に反対し座り込む住民たち。座り込みは7年間に及び、全国の道路公害反対を叫ぶ人々の先駆となった=昭和47(1972)年9月21日、尼崎市内 

 提訴は1988年。長い闘いの末、企業に続いて国や阪神高速道路公団と和解したのは2000年12月。「尼崎公害訴訟和解/赤トンボ舞う空 誓い/闘いに終止符 再生へ/手取り合い喜び分かつ」。大見出しが躍った12月1日付夕刊は書いた。「公害の世紀に幕を下ろし、新たな世紀の扉を開く」。和解から四半世紀。住民の願いどおり環境は再生したのだろうか。