2023年前半のNHK連続テレビ小説「らんまん」は高知県出身の植物学者、牧野富太郎(1862~1957年)をモデルとして、好評のうちに終わりました。東京と高知が主な舞台でしたが、牧野にとって、神戸を含めた関西は重要な活動地でした。
1916(大正5)年、神戸の資産家、池長孟(いけながはじめ)(1891~1955年)による巨額の援助がきっかけでした。10万枚の植物標本が神戸の池長植物研究所に移され、41(昭和16)年に東京の牧野の元に戻るまでの25年間、牧野は関西をよく訪れ、植物研究家、山草愛好者などと交流を深めました。
その中の主な人物の一人が安井喜太郎(02~43年)です。山鳥吉五郎(旧西宮高等女学校校長)、川﨑正悦(灘中学校博物学教師)とともに牧野と関西各地に出かけ、カメラ好きの安井が撮影した牧野の写真も多数残っています。
戦前の「兵庫県博物学会会誌」に安井の文章があります。戦前、兵庫県の博物学の主力メンバーでしたが、高等女学校の教員であったくらいの情報しかなく、親族がどこにおられるかも不明でした。
ところが、昨年7月末に「安井喜太郎のおいです」といって、丹波市柏原町の安井保さんから当館に電話がかかってきました。実は39年(昭和14)年に牧野が丹波で指導した植物採集会の集合写真があり、参加者や牧野に関しての情報を探していたことが安井さんの耳にも入ったのでした。
8月に安井さん宅を訪問して、安井喜太郎氏の経歴がやっと分かりました。柏原の生まれで、御影師範学校、東京高等師範学校を卒業後、旧制宮津中学、茨木高女、神戸第一高女で博物学の教員をしていたものの、病気で柏原に戻って療養中の43(昭和18)年にお亡くなりになりました。牧野富太郎の写真が最近まで長男の元にあったが、ほとんどは高知県立牧野植物園に寄贈したとのことでした。
それでも安井保さんが親族に照会をして出てきたのが、この記事にある写真です。喜太郎氏が神戸在住の頃に生田神社前で牧野と写っています。この詰襟の白い服を着た牧野の姿は41(昭和16)年8月しかありません。神戸の池長植物研究所から標本を東京に戻す際、最後に神戸に来たときがこの服装だったのです。
兵庫県での牧野富太郎の隠れた史料がまだあり、例えば姫路文学館に牧野の掛け軸が展示されているのはちょっと驚きました。牧野に関係する写真、手紙、伝聞情報などがあれば、ぜひともひとはくまでご一報ください。
























