「孝徳天皇行在所祉」と刻まれた石碑=西宮市山口町(有馬温泉観光協会提供)
「孝徳天皇行在所祉」と刻まれた石碑=西宮市山口町(有馬温泉観光協会提供)

 日本温泉協会は、日本の多様な温泉文化をユネスコの無形遺産に登録しようと動いています。私たちは日本の温泉を語るならば、歴史や文化のある有馬温泉は欠かせないと考えています。

 では、日本人はいつから入浴していたのでしょうか? 火山が多いので各地に温泉は湧きます。ですから縄文人も温泉に入浴したと思います。そして滝や川で水浴を行ったでしょう。

 水浴については魏志倭人伝に、人が死んだ場合、埋葬後、一家は水中に入って身体を洗うと書かれているそうです。一方、温泉浴については風土記に各地の温泉の記載があり、「風土記逸文」に有馬の近くに塩湯があると書かれています。話がそれますが、ここでいう有馬(有間)は六甲山の北側、篠山から南側の地域を指しています。今の有馬温泉が有馬という地名になったのは、1896(明治29)年に湯山町から有馬町になってからのことです。

 「日本書紀」に舒明天皇は631年9月19日から12月3日まで、637年10月から翌年の正月8日まで、それぞれ有馬に3カ月間行幸し、正月11日に新嘗祭(にいなめさい)が行われました、有馬に行っていたため定例の新嘗祭ができなかったと注釈がつけられています。重要な新嘗祭の時期を変更してまで有馬温泉に滞在したのは、病気か、よほど温泉を気に入ったのだと思われます。

 また、孝徳天皇は647年10月11日、右大臣、左大臣を伴って大みそかまで滞在しました。

 「摂津国風土記」には、572年から626年まで大臣であった蘇我馬子(嶋大臣)によって塩湯が発見されたという話があり、それで天皇の3回の行幸につながったと考えられます。

 ではその頃の有馬はどのようだったのでしょうか。孝徳天皇の行幸の際に、現在の西宮市山口町(久牟知山)で木材を採取したといいます。山口町にある公智神社は木の祖、久久能智(くくのち)神(句句廼馳)を氏神として祭っており、孝徳天皇の行幸の際に木材を提供し、品質が良好なことで「功地山」の山名を賜ったといいます。

 山口町の北側の山中に青石古墳があります。高さ約1メートル、直径約13メートルの古墳時代後期の横穴式の石室古墳で、内部は花崗岩(かこうがん)。天井は巨大な石で覆われていました。古墳が築かれた時期は飛鳥時代の末期で、舒明天皇や孝徳天皇が行幸された頃と前後します。この地域で大きな勢力を持っていた豪族の墓と考えられ、くぎが出土されたことから木棺で埋葬されたと推察されます。行幸の際にももてなしたのではないでしょうか。

 そして神戸市北区八多町にあるジャンクション建設の際、秦氏の住居跡が発見されたので、秦氏から蘇我馬子へと有馬温泉は伝えられ、現在に至っていると私は考えています。(有馬温泉観光協会)