神戸市北区の湯泉神社。かつて神主職が湯口東西屋を兼任で担っていたという
神戸市北区の湯泉神社。かつて神主職が湯口東西屋を兼任で担っていたという

 鎌倉初期の最も教養のある人物と言われる藤原定家(1162~1241年)は、14歳の時に現代でいうはしか(麻疹)にかかり、呼吸困難や神経症的異常に終生悩まされていたようです。定家の日記「明月記」によると、1203年6月末から湯治で有馬を訪れて上人湯屋に滞在。山奥の滝を見物して女体権現に参詣し、7月10日に帰りました。

 05年7月7日は未明に京都を出発し、船に乗って日没後神崎に着いて1泊。翌日の早朝にたち、午後に有馬に到着して上人湯屋に入った。当時は約1日半で京都から有馬まで来たようです。

 08年10月の時は船で水田(吹田)まで行き、1泊して翌日の午後3時には有馬に着いています。その時は平頼盛の後室が湯口屋に滞留し、上人湯屋には藤原基忠がいました。8日には入道左府が仲国屋をたって帰京し、9日には平三位光盛が、12日には七条院堀川局が来るといった大変にぎやかな湯治場風景だったと記録しています。平家の落人が開いた温泉地としては派手すぎます。

 明月記には上人湯屋(または上人法師屋・上人房)、湯口屋(本湯屋)、仲国屋(仲国朝臣湯屋)の宿名が記載されています。上人湯屋は薬師堂温泉寺の上人房で、湯口屋は温泉湧出の浴場入り口にあって本湯屋東屋ともいわれ、有馬温泉社神主が知行していたとされます。

 仲国屋は仲国朝臣が湯治のために建てた湯宿で、後鳥羽院細工所の木工頭(もくのかみ)仲国が関わったと考えられます。また29年、九条教家は一条相国公経(西園寺公経)の新造湯屋に入ったとあります。鎌倉期の有馬は、中央の有力者や朝臣が湯治用の湯屋を建て、京都の朝廷に仕える人々が湯治をしました。雨天時は湯宿に温泉を運ばせたといいます。

 定家の義弟の西園寺公経は31年、水田の山荘に有馬の湯を毎日おけで200杯も運ばせたといいます。どうやって運んだかというのは記録にありませんが、大規模なバケツリレーのようなことを行ったのかでしょうか? ともかく各地の行遊とともに有名だったようです。

 52年9月には、後嵯峨上皇が大官院と共に、水田山荘や御所に有馬の湯を取り寄せています。南北朝時代に入ると、将軍の御湯治料として有馬の湯をくみ上げる作業員とおけ代を付近の庄屋に課していたという資料があり、将軍家も汲湯(くみゆ)湯治を行っていたようです。(有馬温泉観光協会)