三木城跡上の丸公園の別所長治公像
三木城跡上の丸公園の別所長治公像

 秀吉が36歳で「羽柴秀吉」に名前を改めた頃、播磨地方は西の毛利氏と東の織田信長の勢力に挟まれていました。信長に京都を追われた足利義昭や石山本願寺の顕如の要請により、毛利は反織田となります。1577年、秀吉40歳の時、信長から中国地方を攻める総司令官に任命されます。播磨の豪族赤松氏出身で名門の別所長治は、自分より身分の低い秀吉の傘下に入るのは嫌だったのか、信長に離反し、三木城に籠った事から三木合戦が始まります。

 秀吉は、織田信長の摂津出陣を迎えるために有馬郡山口庄の人々に道路整備をさせ、湯の山街道と有馬を統括する湯山奉行に仙石秀久を任命しました。そして「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めを行います。1580年1月17日、長治一族が切腹し、三木城が開城しました。秀吉は城攻めの疲労を癒やすために有馬温泉に入浴し、まる2日間眠り続けたといいます。これは1664年に記された有馬地誌に記載されていますが、林羅山の仁西が12の宿坊を開いたという話も同様、後世になってから作者の想像も含めて記載しているので、秀吉が有馬に来た歴史的事実としての回数にはカウントされていません。

 秀吉45歳の1582年6月2日、本能寺の変で信長は家臣の明智光秀に討たれます。秀吉は備中高松城の戦いの真っ最中でしたが、毛利氏と講和を取りまとめ、光秀を討つために岡山市北区の高松城から京都の手前の山崎までの約230キロを約10日間で移動し、山崎の戦で明智光秀を討ちとりました。

 その後6月27日、尾張の清洲城で織田家の後継者選びと信長の遺領を配分する清洲会議が開かれます。柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興が出席した会議では、それまで織田家の最大の発言権を持っていた勝家の影響力が低下し、光秀を討った秀吉の力が上回るようになったのです。

 勝家が3日間の宴会の後、秀吉を討つという話を聞いた秀吉は「有馬温泉に行く」と言って嘘をつき長浜に帰ったという記録があります。

 秀吉46歳。1583年4月、秀吉と勝家との賤ケ岳(しずがたけ)の戦いが始まり、24日に北ノ庄城の戦いで勝家が自害し、秀吉の敵がいなくなったのです。そして秀吉は大坂城の築城を始めます。

 その年の8月17日、歴史上では最初に秀吉が有馬に湯治にやってきます。有馬温泉を非常に気に入ったようで、翌年の84年8月2日にも有馬に来て、ついでに大坂の新城に入ると記録にあります。大坂城は2年で完成し、新城に入るのは有馬に来たついでだったというのは興味深いことです。(有馬温泉観光協会)