元禄時代は、それまでの武力による支配から、法律や学問で国を治める「文治政治」に移り変わったことで、経済が発展し、町民が力を持つようになっていきました。
そして赤穂浪士の討ち入りの翌年、1703(元禄16)年に関東地方で大地震(元禄地震)が起き、人々が上方に流れてきたことで、大阪を中心に元禄文化が花開いたのです。
この時代には、井原西鶴の浮世草子、松尾芭蕉の俳句、近松門左衛門の人形浄瑠璃、尾形光琳の大和絵や工芸、菱川師宣の浮世絵といった文化が生まれ、学問の面でも発展が見られました。
また、生國魂(いくたま)神社(大阪市天王寺区)では大道芸人たちが腕を競い合い、大変なにぎわいだったそうです。
その中で特に人気だったのが米沢彦八です。彼は上方落語の始祖の一人とされていて、03年に出版した『軽口御前男(かるくちごぜんおとこ)』の第4巻には、有馬が登場します。
演目の名前は「有馬の身すぎ」。この話はその後、上方落語の演目「有馬小便」として広まりました。
ある男が「何かいい商売はないか」と近所の人に相談すると、「有馬の旅館では毎晩宴会をしている」と教えられます。そこで「その2階から小便をさせる商売をやったらどうだ」と言われ、早速、竹竿(たけざお)と桶(おけ)を持って有馬の温泉街を歩き回ることにしました。
竹竿の節を抜いてパイプのようにし、2階からおしっこを流して下の桶で受けるという仕掛けです。「2階から小便させまっせ!」と呼び込みをすると、「俺も俺も」と注文が続き、男は大喜び。
ところが代金を回収する段になって困ってしまい、「旦那さん! お金も竹筒の中に入れて!」と言い、翌日はザルを持ってこようと考えます。
そんな時、若い娘さんからも注文があり、「恥ずかしいから見ないで!」と言われたので、男が下を向いていると頭からパラパラと……。「しまった! 明日は漏斗(じょうご)を持ってこよう」というのが話のオチです。
有馬では今から12年前、新しい街づくり基本計画を策定しました。それを進める前に「トイレを作れ」という声が有馬のあちこちで起こりました。
公衆トイレを新しく作ることに行政は後ろ向きです。なぜならば設置後の維持管理費用が大変だからです。そこで商店会の補助の採択を受け、外国のようにトイレを有料にしようと考えました。
「有料なんて」という声もあったので、大学生に手伝ってもらって顧客にアンケートを取りました。その結果、有馬を楽しもうとする人ほど、有料でもきれいなトイレが良いという結果が出ました。
そこで、「有馬小便」の話を持ち出し、有馬温泉は「日本の有料トイレの発祥地」として、新たに作るトイレの有料化計画を進めました。しかし、建設場所は道路用地のため、有料化はできませんでした。
現在、有馬商店会が維持管理費用を負担していますが、何とか利用する人にも負担していただけないか思案中です。(有馬温泉観光協会)