1853(嘉永6)年、米国のペリー率いる黒船が浦賀に来航し、日本に開国を迫りました。当時の日本では、外国人を受け入れるべきかどうかで意見が分かれ、「開国派」と「攘夷(じょうい)派」が対立していました。
その後、幕府は開国政策を進めましたが、不平等な条約への反発や政治不安が高まり、結果として幕府の権威は弱体化。徳川慶喜による大政奉還や明治政府の誕生につながりました。
58(安政5)年には、米国、イギリス、フランス、オランダ、ロシアと「安政五カ国条約」が締結されています。その中で、開港場として「兵庫」が明記されました。
神戸港は古くからの港であり、奈良時代に僧の行基によって「大輪田泊(おおわだのとまり)」として整備されました。平安時代には平清盛により「兵庫津」として発展し、日宋貿易の拠点として繁栄しました。
地形的には、西日本の造山運動(地殻変動)により六甲山地が隆起する一方で、大阪湾側が沈降したことで、天然の良港となる十分な水深が確保され、大型船の停泊に適した環境が形成されました。
ただ、条約を受けた実際の開港は横浜、長崎、函館よりも遅れ、68(慶応3)年1月1日に実現しました。開港が遅れた要因の一つとして、当時の都である京都に天皇が居住していたことが挙げられています。
その頃、三田藩では、13代藩主の九鬼隆義のもとで教育改革や西洋知識の導入が進められていました。
中心人物の一人が蘭学者、川本幸民です。川本幸民は西洋の化学、物理学を学び、日本における近代科学の先駆者の一人とされています。
彼は日本で初めてビールの試作をしたほか、写真技術やマッチ製造、化学薬品の精製などにも取り組み、実験を通じて知識を広めました。
72年(明治5)年夏、海外伝道組織「アメリカン・ボード」の宣教師、デイビスが有馬温泉に滞在していた際、九鬼隆義から派遣されてきた3人の元武士は、すでに英語を読むことができたとされています。
このことから九鬼家と宣教師の交流が生まれ、九鬼一家はその後、神戸へ移りました。
九鬼隆義は、家老だった小寺泰次郎、白洲退蔵らとともに神戸初の貿易商社「志摩三商会」を設立。開港によって急速に発展しつつあった神戸の街づくりに大きな影響を与えました。(有馬温泉観光協会)























