元日の夕刻。日本海に面した石川県輪島市の小集落に、出口彌祐(やすけ)さん(77)の吹く笛の音が響き渡った。
ピィーーッ。
ピィーーッ。
能登半島地震の発生は午後4時10分。出口さんの目の前に、土砂に押しつぶされた自宅があった。妻の正子さん=当時(74)=と、横浜市から帰省していた長男博文さん=同(49)=が中にいるはずだった。
「何かあったとき、所在が分かるように」と、正子さんが車中に備えていた小さな金色の笛。「無事なら聞こえるかもしれない」。祈るような思いで吹き続けたが、反応はないまま日が暮れていった。
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出口さんは、帰省する次男を輪島市の中心部まで車で迎えに行き、その帰路、激震に見舞われた。
自宅のある渋田町までの道路は海沿いの国道をはじめ、至るところで寸断。山道をつたい、たどり着いた自宅は見る影もなかった。「津波には注意していたが、まさか山が…」。裏の山が丸ごと動いてきたかのような勢いで、自宅をなぎ倒していた。
渋田町を含む南志見(なじみ)地区は孤立していた。地区外からの救援は期待できず、消防団も火災の対応に手がとられている。出口さんは車に寝泊まりしながら、翌日も翌々日も笛を吹いた。
「自分ではどうにもならないし、すぐに助けが来るとかじゃないから、ただ待つしかなかった」
1月4日。生存率が大幅に下がるとされる72時間が迫る。消防団員らが土砂やがれきをかき分けようとしてくれたが、重機なしではとても無理だった。
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集落に孤立した被災者も次第に追い込まれていく。
地区の小学校は5年前に閉校し、住民の大半が高齢者。高台にある旧小学校舎などに約400人が身を寄せたが、電気も水道も途絶え、寒さも半端でない。食事は1日2食。おにぎりやうどん、わずかな量しかなかった。
1週間が過ぎると、体調を崩す人が出てきた。
「このままやと死人が出る」。住民らは役所と連絡をとり、金沢市への集団避難を決断。10日、自衛隊ヘリコプターでの脱出が始まった。
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妻と長男が見つからぬまま、出口さんも2次避難を余儀なくされた。県外の消防隊員らによって2人の遺体が発見されたのは16日。損傷が激しいと聞き、顔は見なかった。「いい思い出のまま」。そう考えた。
気象台や測候所に勤め、退職後は古里の名勝「白米(しろよね)千枚田」の耕作ボランティアに励んでいた出口さん。家族水入らずのだんらんを楽しむはずの元日は、一年で最もつらい日になった。
「あきらめきれないっていうか、往生際が悪いかもしれないけど、ずっと引きずっていくしかないね」
今もいくつもの「もし」が頭をよぎる。もし集落が孤立しなければ。もし重機があれば。そして、もし地震の前に戻れるなら-。(中島摩子)
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人口減と高齢化で地域の力が細り、孤立のリスクを抱える集落が列島に増えている。「もう一つの災害」とも呼ばれる過疎に、どう向き合うか。能登半島の被災地や南海トラフ巨大地震に備える町を訪ねた。