二つの大震災を知る人がいる。バレーボールSVリーグ女子、ヴィクトリーナ姫路の通訳、阿部美奈子さん(62)。「神戸のために戦おう」と指揮官の言葉を泣きながら訳した阪神・淡路と、予備自衛官として米軍に従事した東日本-。それぞれの経験を基に語り部として学校を巡り、防災の大切さを伝えている。(有島弘記)
【阪神・淡路大震災】監督の言葉涙ながらに翻訳
阪神・淡路は神戸市須磨区中落合の集合住宅で経験した。当時はVリーグ女子、ダイエーの通訳。発生した1月17日は、遠征先の宮崎県から帰宅した翌日だった。
パリンパリン、ガシャンガシャン。就寝中、突き上げる衝撃に吹き飛ばされ、布団をかぶり直して身を守った。横揺れが収まると固定電話が鳴った。前年に女子日本代表のマネジャーを務めた縁で親しくなった江藤直美選手からだった。
「大丈夫ですか」。その言葉でわれに返った。「選手たちは?」。寮がある市営地下鉄学園都市駅までは、自宅の最寄りである名谷駅から2駅。着の身着のまま家を出たが、電車は止まっていた。「もし死んでいたら…」。泣きながら2駅分を歩いた。
選手は無事だった。安心したが、4日後にリーグ戦が迫っていた。翌18日、開催地の佐賀県唐津市を目指してバスに乗り、JR姫路駅から新幹線で向かった。
■チーム一丸
着いたのは湖畔のホテルだった。景色を眺めていると頭が混乱した。「目の前の静けさと神戸とのギャップが大きく、理解が追い付かない感じだった」
選手たちも「親に会いたい」「帰りたい」と漏らした。試合どころではなかったが、名将として知られたアリー・セリンジャー監督は違った。チームミーティングで「今こそ神戸のために戦おう」と訴えた。その熱く力強い言葉を、阿部さんは涙ながらに訳した。
チームは一つになり、レギュラーラウンドを首位で通過。3月上旬に迎えたユニチカとの決勝は0-2から逆転し、リーグの初代女王に輝いた。だが、選手たちは喜び一色ではなかった。まだ発災から1カ月半。激震の恐怖が和らぐことはなく、心はこわばったままだった。「『被災者のため』という余裕はなく、それぞれ一日一日が自分との闘いだった」と振り返る。
【東日本大震災】米軍を支援物資を避難所へ
■問いかけ
1997年シーズンを最後に神戸を離れ、米国に留学した。2000年からパイオニアを率いるセリンジャー監督に呼ばれて山形県に移り住み、08年に退団。3年後、山形市立第十中学校で不登校対応の相談員をしていた3月11日、東北を津波が襲った。
その2カ月前、自衛官の夫の勧めで受けた予備自衛官(技能・英語)の試験に合格していた。被災地では米軍も支援に乗り出し「トモダチ作戦」を展開。予備自衛官制度ができた1954年以来、初の災害招集として3月23日から1週間、米軍大将らと仙台市内の避難所に物資を届けた。
語り部を始めたのはこの頃だ。勤務校で防災をテーマに講演を重ねると、ある生徒のつぶやきが耳に届いた。「何それ、めんどくさ」。3年生の男子生徒だった。
阿部さんは妙に納得した。「いきなり防災と言われても、そうだよね」。以降、話を始める前に「なぜ生き抜く必要があるのか」と子どもたちに投げかける。命を守る意味を自分なりに考えてもらうと深く聞いてくれるようになった。
2023年、セリンジャー監督の息子アヴィタル・セリンジャー氏がヴィクトリーナの監督に就いたのを機に、阿部さんも通訳としてチームに加入。姫路市内でも学校を回り、災害について考えてもらっている。
「あの日に思いをはせてほしい。自分ならどう行動するか。問いかけていきたい」






















