はじめまして。関西学院大学の金菱(かねびし)と申します。災害の研究を長年していますが、ほとんど知られていないので、初めに簡単な挨拶(あいさつ)と自己紹介をしました。最初の投稿は“挨拶”の話をします。災害といえばどのように減災するのかや行政対応などが問われるなかで、挨拶の話は些細(ささい)なことのように聞こえます。ですが、災害の話はたいてい自分には関係ないものとして他人事になってしまいがちです。そこでここでは挨拶を通じて、東日本大震災や阪神・淡路大震災から学んだ大切なメッセージをみなさんに伝えたいと思います。
「おはよう」とか「こんにちは」という言葉自体は単なる4~5個の音の組み合わせにすぎません。「リンゴ」や「花子さん」のように事物や人物を直接表すような対象はこの言葉にはありません。
小津安二郎の「お早う」という映画は、それを逆手に取った問題を取り扱っています。子どもの世界でそれは意味がないんだから挨拶をする必要性がないんだと主張して、挨拶を全くしない実験を繰り返しました。するとその子は友達をなくし、やがて社会から爪はじきにされたのです。
■そばにある幸せに気づいて
一見すると無駄に見える挨拶に、実は意味があるということを示した映画になります。つまり、人と挨拶を交わすことは、社会生活を潤滑にする道具立てだと言えるのではないでしょうか。
私は災害の専門家なのですが、被災者遺族の方のお話に耳を傾けていると、東日本大震災の際に朝挨拶をできたかどうかが数十年にわたって遺族の心にトゲのように深く刺さって残っていることを知りました。「あれが最期になると思っていたら伝えたいことも話したいこともたくさんあり、なぜ朝気持ちよく挨拶をしなかったのだろう」と悔やまれる方が少なくなかったのです。
全校児童108人の実に7割の74人が死亡、行方不明となった大川小学校(宮城県石巻市)のご遺族は「いってらっしゃい」とお子さんを見送ったまま、「お帰り」を言えなかったことについて防災教育を伝え続けておられます。
これを読まれているみなさんは今朝家族の方に挨拶をしたでしょうか。昨日おやすみを伝えられたでしょうか。けんか別れした人はそれが愛する人と最期になってしまうかもしれないのです。亡くなってしまうと肌では愛する人を感じているけれども見えない存在になってしまいます。
災害とは、何げないそしてあまりにも当たり前の日常が何の前触れもなく突然破壊されます。そこには神も仏も存在しません。今回の能登半島地震が示すように、たとえ祝祭の元日という日であったとしても容赦なく私たちの暮らしを奪い去っていく現実を突きつけられました。
3・11から10年後、「あの日のわたしへ手紙をつづる」(『永訣』)という本のプロジェクトのなかで、10年前に災害のことを何も知らない自分自身に対してもし伝えられるとしたら何を教えたいですか、ということについて手紙を通じて被災者自身に書きつづってもらいました。印象が深く残っている手紙の一節を紹介します。
彼は津波でお父さんを亡くしています。
せめてこれだけは3月11日の朝、お父さんに伝えてください。
「朝ごはんの目玉焼き、今までで一番おいしかったよ。行ってきます」
私はこの言葉が言えなかった。日常の中のたった一言、二言をわざわざ伝える必要がないと感じていました。でも、伝えられなかったことを今までずっと後悔しています。(目黒紹「父の決断を尊重し続けていきたい」)
ここでは災害そのものの悲惨さや教訓めいた言葉は出てきません。なんでもない朝食だったのです。私たちは今朝食べたものは覚えているにしても、昨日食べたものはどうでしょう。さらに1週間前の朝食はどうだったか聞かれると記憶があやしくなります。けれども、彼のなかで10年前の目玉焼きの味が忘れられないのです。翻ってみると私たちは毎日の大切な瞬間をどれだけ忘れているんだろうと思わされます。彼も震災がなければあの目玉焼きの味や何を食べたかすら記憶の片隅から消えていることでしょう。
私たちが明日を迎えられることは奇跡なのです。今の日常が明日も続くことを保証されていない以上、普段何げない言葉や感謝の気持ちは、その都度伝える必要があることを物語っています。災害を考えることは、日常では起こらないことについて考えて備えることももちろん必要ですが、実はいまあなたのすぐそばにある日常のありがたさや幸せに気づくことではないかと感じることが少なくありません。今日その気持ちを大切な人に伝えてみてはいかがでしょうか。きっと朝食べるなんでもない食事が輝いてみえるはずです。そのことを災害に遭われた人々のメッセージとして今回ぜひお伝えしたいと思いました。
(かねびし・きよし=関西学院大社会学部教授、災害社会学)