甲子園球場(西宮市)がきょう、誕生から100年を迎えた。「東洋一」と称された大球場は高校野球の聖地、阪神タイガースの本拠地として数々の名勝負、名選手を生み、人々を魅了し続ける。第2次世界大戦や阪神・淡路大震災の苦難も乗り越えた長い歴史を振り返ってみたい。
阪神電鉄が1924(大正13)年3月に着工し、わずか4カ月半の突貫工事で8月1日に開場した。十干(じっかん)、十二支の最初の「甲(きのえ)」と「子(ね)」が60年ぶりに重なる縁起のいい年にちなみ「甲子園」と命名された。
他のスポーツも行うため、当初の名称は「甲子園大運動場」だった。こけら落としは阪神沿線の小学校150校、2500人による陸上競技大会で、同13日から第10回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高校野球選手権大会)が開幕した。
鉄筋コンクリート造りで50段のスタンドを持ち、真夏の大会に備え内野席には鉄製の屋根「大鉄傘(だいてっさん)」を設けた。最新設備を誇る巨大スタジアムは競技の普及や、女性客の増加などファン層の拡大に貢献した。
甲子園はその後、各競技の晴れ舞台となる。現在もアメリカンフットボールの学生日本一を決める「甲子園ボウル」が催されるが、馬術やサッカー、ラグビー、スキーのジャンプなどの全国大会も開かれた。
時代の波にも翻弄(ほんろう)された。第2次世界大戦の影響で、中等学校野球は5年間中断した。鉄傘は供出され、グラウンドも空襲による爆撃を受けた。戦後は米軍に接収された。
95年には阪神・淡路大震災に見舞われた。アルプススタンドに亀裂が入るなどしたが、約2カ月後の選抜高校野球大会は予定通り開かれた。兵庫県から神港学園、育英、報徳学園の3校が出場し、躍動する球児たちが被災者を勇気づけた。
継承していくべき価値もある。地域とのつながりだ。球場の完成後、周辺ではスポーツ・娯楽施設の建設や良好な郊外住宅地としてのまちづくりが進み、「甲子園」の名は施設から地域の名称へと広がった。甲子園というブランドはいつしか野球文化を超え、全国に浸透している。
球場は伝統的な姿を崩さず改修を施してきた。黒土と天然芝のグラウンド、ツタの絡まる外壁など開場当時のスタイルを保つ。近年は猛暑で熱中症にかかる人が続出し、内野席を覆う「銀傘(ぎんさん)」をアルプススタンドまで広げる構想が昨年発表された。環境にも配慮し、快適性や安全性を高める改良を今後も続けてほしい。
「野球の聖地に」という100年前の夢は現実になった。歴史と伝統が生んだ価値を時代に合わせ、いかに発展させていくのか。次の100年へさらなる進化を期待したい。