終戦から79年たち、戦争の記憶の継承が切実な課題となっている。実体験を語る証言者が急速に減っていく中で、重要性を増すのが各地に残る戦争遺跡や廃棄を免れた当時の資料などの存在だ。それらをどう読み解き、次代に伝えていくかの模索が続く。積み重ねてきた「戦後」を新たな戦前にしないために学ぶべきことを身近な地域から探りたい。

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 北条鉄道の法華口駅から約3キロ、道しるべ代わりのカラー舗装に沿って進んだ先に、加西市の地域活性化拠点施設「soraかさい」が見えてくる。建物に向かう一本道の脇に戦争末期に造られた姫路海軍航空隊鶉野(うずらの)飛行場の滑走路跡(1200メートル)が当時のまま残る。周辺には素掘りの防空壕(ごう)群やコンクリート製の爆弾庫跡、敵機を迎え撃つ機銃座跡などが草木に覆われて点在する。soraかさいは国から滑走路跡の払い下げを受ける際、市が活用策として整備し2022年に完成した。

 中に入ると、飛行場に隣接していた川西航空機姫路製作所の工場で組み立てられた戦闘機「紫電改」と、訓練機だが体当たりの特別攻撃にも使われた「九七式艦上攻撃機」の実物大模型が存在感を放つ。同飛行場から出撃した特攻隊「白鷺(はくろ)隊」の状況を映像や遺品で紹介するコーナーは奥にある。カフェや特産品の売店も併設され、明るい雰囲気だ。

 中核となる資料や関係者の証言を約30年かけて集め、地元でも忘れられかけた歴史を「なかったことにはできない」と掘り起こしたのは、滑走路跡近くの会社に勤めていた上谷昭夫さん(85)=高砂市。講演などでは「技術の粋を集めた戦闘機で、多くの若者が犠牲になったことを忘れないで」とも伝えてきた。

 修学旅行や平和学習で訪れる小中学生も多いが、戦闘機の雄姿と平和の尊さがすぐに結びつくとは限らない。モノだけでは伝わらない背景を体験者の語りや歴史を踏まえた解説で補う必要性は高まっている。

平和学習の理念は

 注目は、地元の北条高校で探究学習に取り組む「うずらの班」との連携だ。同班は施設ができる前から地域の戦争遺跡の調査や体験者への聞き取りを続け、防空壕などでガイドも務めてきた。生徒たちは「戦争がここで実際にあったと実感できた」「歴史をもっと知り、平和の大切さを同世代にも伝えたい」と学びを深めている。5月にsoraかさい開設2周年企画として実施された戦跡ツアーも好評だった。

 一方、オープンから2年連続で10万人を超えたsoraかさい全体の入場者数は3年目に入り減少傾向にある。新型コロナウイルス禍の収束で広島、長崎への修学旅行が復活したことなどが要因という。観光資源としての活用にとどまらず、平和学習拠点として軸となる理念が求められているのではないか。

 12年に開館した滋賀県平和祈念館(東近江市)は、県が運営する全国でも珍しい施設だ。収蔵資料は5万点を超え、戦時中の県民の暮らしを豊富な資料とエピソードで浮き彫りにする基本展示が充実している。小中学校への出前授業など平和学習にも力を入れる。館長の朝倉敏夫・国立民族学博物館名誉教授は「利用者の満足度は高い。戦後80年を前に、改めて平和とは何かを問いかける企画にも取り組みたい」と語る。

市民の力を生かす

 同館では、ボランティアの主体的な活動を運営に生かしている。20~80代の約50人が登録し、当時の手紙の解読や演劇創作、戦時食の再現などのグループに分かれて、資料を活用して「平和への願い」を伝える方法を考え、発表している。その活動を行政が支える意味は大きい。

 鶉野飛行場跡の調査に携わった神戸大人文学研究科研究員の佐々木和子さん(71)は「戦跡の発掘や保存は市民の地道な活動から始まる場合が多い。ばらばらだった資料が時を経て結びつき、答えが見つかることもある。資料を生かし、時代を超えて検証できる仕組みをつくるのは自治体や政府の役割ではないか」と指摘する。

 soraかさいで10日、北条高生による初めてのイベントが開かれ、うずらの班も活動を報告した。高校生がひたむきに戦争の悲惨さと平和の大切さを伝える姿は、施設を訪れる人と、地域に残る戦争の記憶の架け橋になるだろう。

 若者を見守るだけでなく、自分でも身近な戦跡を訪ねたり、体験者の言葉に触れたりできる機会を探してみよう。継承の裾野を担う一人一人の行動が問われている。