阪神・淡路大震災の教訓から2005年に結成された「災害派遣医療チーム(DMAT)」は隊員数が1万7千人を超え、発災初期の医療に欠かせない存在へと育った。
その後も相次いだ災害の課題を踏まえ、活動の幅を広げ続ける。新型コロナウイルス禍を経て健康危機管理の体制強化が進み、防災庁の設置も視野に入る中、DMATが果たしてきた役割について理解を深め、今後のあるべき姿について議論を尽くさねばならない。
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阪神・淡路では、通常の医療が提供されていれば助かった「避けられた災害死」が約500人に上るとの推計があり、急性期(おおむね48時間以内)に活動できる医療チームの整備が課題となった。DMATは東京都が04年に全国で初めてつくり、新潟県中越地震での支援遅れの反省から、翌年に全国組織が発足した。
活動の「原点」は、建物倒壊などによる外傷患者の治療だったが、11年の東日本大震災を契機に、機能を拡充させていく。
東京電力福島第1原発事故の発生時、放射線被害の恐れがある地域での活動を見送る判断をしたが、民間病院から避難中の患者が立ち往生するなどして、入院患者約440人の1割強が死亡する悲劇が起きた。DMAT創設に関わり、司令塔役を務めてきた近藤久禎(ひさよし)・事務局次長はこの事態を「原罪」と呼び「医療ニーズがあるのに対応しなかったことを忘れてはならない」と振り返る。
東日本では重傷患者は少なかったが、いわて花巻空港を拠点に広域医療搬送で存在感を発揮した。一方で民間病院の支援は手薄だった。
■「医療ニーズ」とは
同様の失敗は18年の西日本豪雨でも繰り返される。「医療ニーズはない」との判断で広島県呉市での活動を見送ったが、実際は断水により病院機能の維持が危ぶまれていた。
これらの教訓を基に、DMATは活動の重心を病院機能の下支えに移していく。長期の断水や停電を想定し、燃料や水の確保に奔走する。本来は行政が果たすべき役割でも不足があれば補ってきた。
DMATの進化は、医療・福祉・保健行政を巡る負の歴史の裏返しでもある。DMAT任せにせず、役割分担や協働の姿について、平時から議論を重ねる必要がある。
昨年1月の能登半島地震では福祉施設の支援を強化した。体調不良の入所者らを受け入れる「いっとき待機ステーション」をつくり、入院や入所の調整弁とした。患者を他地域へ搬送する際も、コミュニティーの衰退や孤立死を防ぐため、早期の帰還に配慮した方法を模索する。
「避けられた災害死」の防止に加え、「悲劇の低減」をも目指してきたDMATの理念を行政の防災計画などにも反映させる必要がある。
拡大を続けるDMATの役割について医療者には異論もある。
阪神・淡路後の医療を担い、西日本での隊員養成に関わってきた中山伸一・兵庫県災害医療センター名誉院長は「患者を直接診療したいとの思いが隊員にはある」と指摘する。同センターでの養成研修では傷病者のトリアージ(治療の優先順位の判断)にも力を入れる一方、東京会場での研修は病院や施設の機能を維持する具体的な支援に特化してきた。
■危機管理に知見を
新型コロナ禍を経て、政府は感染症や災害への対応を強化する「国立健康危機管理研究機構」を4月に発足させる。一方、石破茂首相は防災省(庁)の創設に意欲を見せる。危機管理体制にDMATをどう位置付けるかは極めて重要だ。これまでの活動で得られた知見を生かした方策が求められる。
DMATの機能充実には民間病院の協力が欠かせないが、要員派遣は医療機関の「善意」で成り立つ部分が多い。より協力しやすくなるよう派遣元のメリットも意識したい。
阪神・淡路の「原点」と東日本の「原罪」を踏まえ、災害医療の在り方について国民的な議論を深めるべき時期に来ている。