太平洋戦争末期の1945年3月26日、米軍が沖縄県の慶良間(けらま)諸島に上陸した。4月に入ると沖縄本島にも上陸し、日米両軍による戦闘が本格化した。旧日本軍が持久戦に持ち込み、その後泥沼化する沖縄戦の始まりだった。結果、日米合わせて20万人以上が死亡し、多数の住民も巻き込まれる。凄惨(せいさん)な地上戦の歴史に私たちも改めて目を向けたい。
米軍の上陸直後、慶良間の島々では、追い詰められた住民計600人以上が「集団死」を強いられた。4月2日には本島・読谷村の自然壕(ごう)チビチリガマでも80人以上が同じ道をたどった。悲劇と言うほかない。
沖縄の各地で起きた集団死には軍の命令や誘導があったとされ、皇民化教育の影響も指摘される。集団死を巡る強制性や軍国主義下の教育の問題については検証を続け、教訓を引き継いでいく必要がある。
沖縄での戦禍は米軍上陸の前からあった。44年10月10日、米軍が県内各地を爆撃した。600人以上が亡くなり、那覇の市街地が壊滅的な被害を受けた。同年8月には、那覇から長崎に向かう学童疎開船の対馬丸が米軍潜水艦の魚雷で沈没した。約千人の子どもを含む1500人近くが尊い命を落としたが、軍はかん口令を敷いて事件を隠した。
南西諸島の食料事情が厳しい中、子どもや高齢者は戦闘の足手まといになるとして、軍と政府が疎開を決めたことが背景にある。国策が犠牲を招いたと言わざるを得ない。
沖縄戦から80年の節目となった先月、政府は、台湾有事などを想定した沖縄県・先島諸島からの避難に関する計画概要を公表した。石垣市や宮古島市など5市町村の住民約11万人に観光客らを加えた12万人が対象で、九州と山口県の計8県32市町で受け入れるとしている。
船舶や航空機を使って1日約2万人ずつを避難させ、6日間で完了させる計画だが、それだけの輸送力や宿泊施設などを実際に確保できるのか、実効性に疑問符が付く。受け入れ側の自治体からも既に「机上の空論」との批判が出ている。
軍の都合を優先させた対馬丸事件の記憶から、沖縄には避難自体への反感もある。玉城デニー知事が「不安の声がある」と述べ、政府に丁寧な説明を求めたのは当然だ。
米軍基地が集中する沖縄本島が避難の対象外である点も説明がつかない。本島が有事に巻き込まれた場合はどのような想定になるのか。政府は見解を示すべきだ。
沖縄戦の悲劇は二度と繰り返してはならない。そのためには粘り強い外交努力こそが求められる。戦後80年を機に、戦争の回避を何よりも優先すべきとの認識を共有したい。