昭和の戦禍や復興を顧みる日として、きょう4月29日は「昭和の日」に制定されている。

 昭和の年号が続いていれば、今年は100年の節目となる。戦後復興から高度成長、そしてバブル崩壊へ。経済面だけを見ても、国の将来を考える上で重要な意味を持つ時代である。過去を見据え次代への柱をどう見いだすか。そうした視点から兵庫の100年を振り返りたい。

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 昭和の兵庫で特筆すべきは、人口流入が流出を上回る「社会増加」が続いたことだ。戦時下を除く各都道府県の増加数を10年単位で追うと、兵庫は1925(大正14)年から70(昭和45)年までプラスが続く=グラフ。同様の増加は他に神奈川、愛知、大阪に限られる。

 東京五輪開催や東海道新幹線開業が重なった64(同39)年には社会増が約3万7千人に達し、うち福岡や鹿児島からの転入超過がともに5千人を超えた。県の統計書はその要因に「炭鉱離職者の受け入れ」や「求人開拓の成果」を挙げる。

 経済構造の変化や地方の就職難に対応する雇用の受け皿の役割を、兵庫が担っていた証しである。

■県内各地潤した輸出

 隆盛の主因が神戸港だ。大正末期の関東大震災で被災した横浜港に代わり、日本の輸出入の中心となった。鉄鋼や造船など重厚長大産業の発展を導き、日本の高度成長に寄与した。県南部の臨海部には工場が林立し、多くの中小企業も育った。

 播州織や靴下など、県内各地の地場産業が神戸港を拠点に輸出で栄えた点も注視したい。播州織産地・西脇市のホームページは「昭和30年代には数多くの女子労働者が集団就職でやってきました」と記す。

 歴史も風土も異なる淡路や播磨、但馬、丹波、摂津の五国を明治政府が「兵庫」に糾合したのは、豊かな後背地で神戸港を支えるためだった。昭和の兵庫の発展は、その戦略が奏功したと言えるだろう。

 だが高度成長が終わると様相は一変する。74(同49)年、「尼崎市などの阪神都市部における環境悪化」(県統計書)を一因に県の社会増は初のマイナスに。85(同60)年のプラザ合意による円高で、輸出に依存する地場産業は勢いを失った。

 神戸港のコンテナ取扱量は75(同50)年に世界2位、その後も上位を保ったが、周辺国の港湾との競争が加速し1995年の阪神・淡路大震災で貨物は他港に流れた。現在の世界ランキングは70位に入らない。

■「第二の開港」好機に

 大震災の発生は昭和70年にあたる。兵庫の昭和100年のうち後半3分の1は人を呼び込む次の柱を見いだせず、近年は転出超過が続いている。優れた中小企業が数多く存在する一方で、若者を中心に多くの人が職を求め東京や大阪へ転出するのは歯がゆいばかりだ。

 100年の節目に、昭和の兵庫の繁栄を築いた神戸港と地場産業の関係に改めて目を向けたい。

 為替変動や価格競争に影響されないよう、品質やデザインに秀でた高付加価値品で海外市場を深く耕し、神戸港から輸出する流れを強化できないか。

 今年は神戸空港の国際化が実現した。「第二の開港」とするには、海外からの観光客を取り込むだけでなく、兵庫の産品を海外に売り込む好機ともとらえる必要がある。

 日本全体の人口が減り続ける中、もはや昭和の成長期のような大規模な社会増は期待できない。各地の歴史風土や蓄積を生かす地場産業が発展し、地域に根ざす雇用を増やすことが求められる。