豊岡市の市街地や城崎温泉街などに壊滅的な被害をもたらした北但大震災の発生から、23日で丸100年となる。復興のまちづくりに組み込まれた災害対策は、地震後の火災の恐ろしさと初期消火の大切さを今に伝えている。100年の節目を、これからの防災を問い直す機会としたい。

 北但大震災は1925(大正14)年5月23日午前11時10分ごろ、豊岡市の円山川河口付近を震源として発生した。地震の規模を示すマグニチュード(M)は6・8で、当時の最大階級だった震度6が観測された。城崎温泉街はほぼ全焼、豊岡市街地も大部分が焼け、現豊岡市域で死者420人、全焼1712戸、全壊826戸を数えた。

 火災が拡大したのは、その2年前に起きた関東大震災と同様に、昼食準備の時間帯と重なったためだ。震災復興では火災に強いまちづくりが進められ、豊岡や城崎の各所には延焼を防ぐためコンクリート造りの建物を配した。城崎温泉街では道幅を広げたほか、街中を流れる大谿(おおたに)川も拡幅し水害にも備えた。

 記憶の継承も続く。震源に近い田結(たい)地区では約80戸のほとんどが全半壊し、多くの住民が家屋の下敷きとなったが、過去に大火を経験した経験から初期消火を優先させ、被害を最小限に抑えた。住民らは毎年、神社の周囲を延べ千回巡る「千度参り」を営み、犠牲者をいたむ。

 対策を施したとはいえ、木造旅館が並び立つ城崎温泉街では、火災はなおも脅威であり続ける。2015年1月には店舗など12棟が全半焼し、2人が犠牲となる大火に見舞われた。今月5日未明にも、旅館など6棟を焼く火事があった。

 温泉街に限らず、木造建造物の密集地帯は全国各地に数多く存在する。日本的な情緒も大切にしつつ、地震や火災に強いまちに変えていくためには、行政と住民、事業者が課題を理解しハード、ソフト両面で不断の努力を続けなければならない。

 一定の揺れを感じると自動的に電気を止める感震ブレーカーは普及が進んでいない。けがから身を守るだけでなく、火災の防止にもつながる家具の転倒防止(固定)も併せて、家庭にも対策を呼びかける必要がある。