沖縄県はきのう、太平洋戦争末期の沖縄戦から80年の「慰霊の日」を迎えた。激戦地となった同県糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園で沖縄全戦没者追悼式が開かれ、玉城デニー知事や石破茂首相らが参列した。
日米双方で20万人以上が死亡したと推計され、県民の犠牲者は4人に1人に当たる。戦没者名を記した同公園の「平和の礎(いしじ)」には今年も342人の名前が刻銘され、24万2567人になった。兵庫県出身者は3203人である。冥福を祈るとともに平和の尊さを心に刻みたい。
追悼式で玉城知事は「沖縄戦の実相と教訓を守り伝え続けることが私たちの使命」と述べた。沖縄戦を巡っては、国会議員が不見識な発言をするなどの問題が起きている。世界の各地では多くの市民が戦火に見舞われている。悲惨な地上戦を語り継ぐ意義はより重みを増す。
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米軍は1945(昭和20)年3月26日に慶良間(けらま)諸島、4月1日には沖縄本島の中部に上陸し、進攻した。5月下旬、日本陸軍第32軍は首里城地下の司令部から撤退し、南部での持久戦に持ち込む。だが6月には組織的戦闘ができなくなり、同23日までに牛島満司令官らが自決した。
沖縄戦史で強調すべきは、沖縄が「捨て石」にされた点だ。神戸出身の現代史研究者で関東学院大名誉教授の林博史氏は新著「沖縄戦」で、帝国陸海軍作戦計画大綱などを根拠に「本土防衛準備のための時間稼ぎの戦い」だったと位置付ける。その結果、多数の住民が犠牲になった事実を忘れてはならない。
基地問題の始まり
軍の南部撤退には、住民が戦闘に巻き込まれるとして神戸出身の島田叡(あきら)知事が反対したとされる。知事は戦地で消息不明となった。献身的に県政に従事したことなどから、沖縄の「島守」として顕彰されてきた。
だが林氏は同書で、学徒の防衛召集に際し、県が軍に名簿を提出した問題などを指摘し「(知事は)軍と一体となって戦場態勢づくりを急速に進めた」と述べる。軍部だけでなく、戦時行政の責任についても検証を進めていく必要があろう。
沖縄戦では、スパイ容疑をかけられたり軍の命令に従わなかったりした民間人が日本兵に殺害された。軍の強制や誘導による「集団自決」も起きた。そうした過酷な体験から、県民は「軍隊は住民を守らない」と語り伝える。貴重な教訓である。
米軍は本島上陸後、すぐに日本陸軍の中飛行場(後の米空軍嘉手納基地)を占領し、整備拡張した。普天間飛行場(宜野湾市)の建設などにも着手した。戦後、米軍は「銃剣とブルドーザー」による強制的な土地の接収を行い、基地を広げていく。現在、在日米軍専用施設面積の約70%が沖縄県にあり、沖縄本島の約15%を占める。過重な基地負担の問題は沖縄戦のさなかに始まった。
本土復帰後、沖縄県は基地の整理縮小を求め続けてきたが、基地は集中したままだ。とりわけ、住宅地に囲まれた普天間飛行場の返還が遅れている問題は看過できない。日本政府は名護市辺野古への移設が「唯一の解決策」という方針に固執せず、早期返還の道を探るべきだ。
米兵による凶悪事件が絶えない問題も深刻である。犯罪被害も沖縄戦当時に始まっている。事件の捜査では、米軍の特権的地位を定めた日米地位協定が厚い壁になっている。日本政府は不平等な協定の見直しを米側に強く求めてもらいたい。
軍事化が招く不安
米軍基地の問題に加え、沖縄を含む南西諸島では近年、台湾有事などを念頭に置いた自衛隊の防衛力強化が住民の不安を招いている。2016年に与那国島、19年に宮古島と奄美大島、23年には石垣島に駐屯地が開設され、自衛隊の基地面積は本土復帰時の約5倍となった。米軍との連携強化も進みつつある。
基地は有事の際に相手国の攻撃対象になり得る。島全体が危険にさらされる恐れもあり、玉城知事は「抑止力の強化がかえって地域の緊張を高めている」と懸念を示す。
政府は今年、石垣島など先島諸島の住民ら約12万人を九州などに避難させる計画を公表した。輸送手段や受け入れ先が十分に確保できるかなど、実効性に疑問符が付く。
日米両政府が急速に軍事化と有事対応を進める現状に、沖縄戦の体験者らは「まるで戦前だ」と強い危機感を抱く。沖縄を本土防衛の「捨て石」とした時代への回帰は決して許されない。80年前の悲劇を繰り返さないためには、平和的な外交と対話にこそ力を入れねばならない。