太平洋戦争の終結から80年を迎えた。戦後生まれが総人口の9割近くに達し、体験者の証言を直接聞ける時代は終わりに近づきつつある。悲劇を繰り返すまいという願いと生きた語りに支えられてきた「不戦の誓い」の継承は正念場にある。

 年月を経て浮かび上がる深刻な戦争のトラウマ(心的外傷)や、空襲犠牲者に対する補償など解決されていない問題もある。なぜ日本は戦争を始め、止められなかったのか。敗戦後、他国と戦争せずにいられたのはなぜか。「自国優先主義」が国際秩序と歴史の教訓をのみ込もうとする今こそ、検証する価値を持つ。

 私たちが向き合うべき「戦後」は続いている。その認識を共有し未来に生かすため何ができるか。市民の地道な実践から考えたい。

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 神戸市の市民団体「神戸空襲を記録する会」は1971年に発足し、体験者の手記編さんと講演、犠牲者の名簿作りを軸に、戦争末期の空襲被害を伝える。この1年は「みんなでつくろう 戦後80年」を合言葉に、市内の戦跡巡りや、ボランティアガイドの養成、証言集の出版に力を入れてきた。

■熱心な若い世代も

 「活動の担い手を広げないと語り継げない」と事務局長の小城(こじょう)智子さん(73)。今月9日に開いたシンポジウムでは戦後生まれの会員らが登壇し、空襲前後の神戸の街を米軍の記録映像で比較しながら、被害を読み解いた。ガイド養成講座には熱心な若い世代の参加も目につく。

 小城さん自身は、復員してきた父の体験談を聞いて育った。記憶に残るのは日本兵が現地の人や初年兵にひどい扱いをするのを見た話だ。「自分は加担せずに済んだが、あの人らもかわいそうやった」と加害兵に同情的な父に、小城さんは「なぜ止めなかったのか」と反発した。「自分にできることはやった」と語る父とよく口論になったという。

 戦後の暮らしは戦時中より苦しかった。だが父は傷痍(しょうい)軍人に寄付したり、在日朝鮮人一家に間借りさせたりしていた。「戦場でもかろうじて良心を失わず、微力でも弱い立場の人の助けになろうとした。父は何を伝えたかったのか。戦争は人をどう変えてしまうのか。もっと真摯(しんし)に話を聞けばよかった」。その思いが自身の活動の原点になっている。

 教員を定年まで務めた小城さんは退職後、平和教育や外国人支援にも精力的に携わる。記録する会では、正確な人数も判明していない犠牲者の登録を呼びかけ、名前の読み上げによる追悼や、戦前の神戸の写真収集も計画中だ。「戦後81年に向けて今できることは全てやりたい」

■「自分ごと」にする

 三田市では7月19日、三田空襲の「追体験ツアー」が催された。80年前のこの日、米軍機の機銃掃射で児童4人と女性1人が犠牲になった三輪国民学校(現・三輪小学校)を出発し、当時2年生だった中嶋宏次(こうじ)さん(故人)の証言に沿って、銃撃から必死に逃げた道をたどった。

 主催した市民団体「SUNPEACE(サンピース)」は体験者の証言を動画に記録し、後世に残そうとしている。理事長で同市立武庫小学校長の大向(おおむかい)勲さん(59)は以前、中嶋さんとともに歩いた際の資料をもとに「あの日もこんな青空だった」「伏せて見上げると米軍機はあの屋根すれすれに飛んで来たそうだ」などと伝える。「聞くだけでは知ったことにならない。現場を歩き、肌で感じてほしい。託された記憶を丁寧に次世代に渡していく」と話す。

 記憶をつなぐ取り組みは探せば意外と近くにある。大事なのはその扉を開け自分ごとにする過程だろう。

 体験者が減る中、先の戦争を巡る認識の年代差は広がる。共同通信の戦後80年世論調査で、「侵略戦争だった」とした人は42%で10年前から7ポイント減った。「自衛の戦争だった」は12%にとどまるが、若年層ほど割合が増す。アジア諸国への加害の側面をどう受け止め、伝えていくかも大きな課題だ。学び、対話し、考える夏を終わらせてはならない。