「『ワー』と言って、パンチが飛んでくるのよ」
宮崎市でホームホスピス「かあさんの家」を運営する認定NPO法人理事長、市原美穂さん(72)が振り返る。人に殴られた話なのに、何だか懐かしそうだ。
2010年秋、「かあさんの家 月見ケ丘」に認知症の本部(ほんぶ)喜代子さんがやって来た。85歳。介護を担っていた夫が亡くなり、特別養護老人ホームや介護療養型医療施設を経て入居した。胃に直接栄養を送る「胃ろう」で、移動も介助が必要だった。
初日のことだ。「ここがお部屋ですよ」と案内した市原さんは、いきなり顔を殴られる。他のスタッフも爪を立てられたり、かまれたりした。
「そんな時は我慢するんですか?」。私たちがそう尋ねると、市原さんは笑って首を横に振った。
「例えば髪をつかまれるとね、目を見て『痛いんだけど、外してくれない?』って聞くの。そう言ってじっとしてると、少し力を緩めてくれるの。ちゃんと話せば分かってくれるんですよ」
入居からしばらくした頃の本部さんの写真を見せてもらう。ベッドの下に足を投げ出し、両手はしっかりと柵を握っている。「リビングの話し声を聞いて、みんなのところへ行こうとしてるのよ」と、市原さんが教えてくれた。
「かあさんの家」は、リビングを囲むようにして入居者の部屋があり、自室にいると、さまざまな生活音が聞こえてくる。リビングの様子が気になるのも分かる気がする。
ある日、本部さんが胃ろうの管を自分で引き抜いてしまった。もう一度、胃ろうにするか。それとも口から食べるか。市原さんらは栄養士や理学療法士と相談し口からの食事に切り替えた。本部さんは1年ぶりにゼリー状のものを口にし、笑った。「刺し身を食べた時はね、『うめかった』って言ったのよ」
やがて、「なますかん(気に入らない)」と言うことはあっても、暴力を振るうことはなくなった。入居から2年後には、得意だった和裁を楽しむようになる。
「尊厳って、嫌がることをしないことなのよね」。市原さんが言った。
本部さんは亡くなるまで5年半、「かあさんの家」で暮らした。
2019/6/15