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読者から寄せられた手紙やファクス
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読者から寄せられた手紙やファクス

読者から寄せられた手紙やファクス

読者から寄せられた手紙やファクス

 6月に朝刊社会面に掲載したシリーズ「いのちをめぐる物語」第一部、「死ぬって、怖い?」(全19回)に読者から多くの手紙やファクス、メールが届きました。そこには家族をみとった経験、亡き人への思いなどがつづられています。心の中にしまい込み、口に出して語れなかったことを記していただいたようです。一人として、同じ最期はありません。寄せられた声の一部を紹介します。(紺野大樹、中島摩子、田中宏樹)

 昨年10月、53歳の主人をがんで亡くしました。つらい抗がん剤の治療にも耐えていましたが、たった4カ月で私のそばからいなくなってしまいました。

 私は主人より年上です。23年間一緒にいましたが、もっと一緒にいたかった。私の命を半分あげる、痛みもつらさもしんどさも半分もらうと思いながらそばにいましたが、私より先に旅立ってしまいました。

 入退院を繰り返し、ホスピスを勧められましたが、「家で死にたい」と言っていたこともあり、自宅でみとることにしました。だんだん弱っていく主人の看護は大変で、歩けなくなってからはかかりつけ医に往診してもらい、看護師にも毎日来てもらっていました。

 毎日、一緒に入浴して体を洗い、食事も一緒に食べて、ひょっとしたら、もっと生きられるんじゃないか、また一緒に散歩したり、買い物にも行けるんじゃないかと夢を見ることもありました。

 元気な間はLINE(ライン)なんてしたことなかったのに、入院中はずっとしていました。痛みで眠れないとき、心が不安定なときは四六時中、LINEで話していました。今は「既読」にならないメッセージを送って話しかけています。

 亡くなったときは、私と手をつないでいるような形でした。死ぬのは怖いです。この地球からいなくなって、どうなるんだろう、どこへ行くんだろうと恐怖です。それを主人は1人で耐えていました。2人で一緒に抱き合って泣けばよかった。一緒に口に出して苦しみ、悲しめばよかった。

 主人の闘病中より、亡くなってからの方が長くなってしまいました。毎日、日記帳に主人への手紙を書いています。夢でいいから会いたいと思っても、夢も見ません。

 家の中は、主人が生きていたときのままです。帰ってきたらいいだけです。きょうも私は、放浪の旅に出た主人の帰りを待っています。(明石市・60代女性)

   ◆   ◆   ◆

 私は2人の夫をがんで亡くしました。1人は家で、もう1人は病院でみとりました。

 最初の夫は2011年、胃がんで亡くなりました。最低限の手術を受けて自然に任せた暮らしをし、最期の2週間は訪問診療を受けて過ごしました。たくさんの仲間が訪れ、援助してくれたおかげで、最期まで私たちらしい時間を持つことができました。

 その後、再婚し、子宝にも恵まれましたが、17年、子どもが3歳の誕生日を迎えた翌月、夫は肺がんで他界しました。在宅でのみとりの経験から、私と幼い子どもと2人の家では、望んでいる時間を持てないと判断し、病院で過ごすことにしました。

 入院から2週間で亡くなりましたが、最期の1週間は子どもを友人に預け、ずっと病院で付き添いました。2人で過ごす時間を持てたことは、私自身の人生においてもかけがえのない大切な時間になりました。

 思いがけず、2人の夫を見送ることになりました。まだ「死」という言葉すら知らない小さな子どもに、どのように父親の死を知らせ、感じさせて育てていくのか。分からないながらも、明るく前向きな死生観を持って、父と共に生き続けていると感じるように伝えていきたいです。

 2人目の夫のときは、お見舞いに来る友人や親戚はいましたが、一緒にみとりの時間を過ごす仲間はいませんでした。さまざまなことを共に語れる人がいないことは、最初の夫のときとは大きな違いだと感じています。亡くなった後の喪失感と孤独感、1人で背負わなければならない責任感が呼吸を浅くしていると感じることがあります。

 亡くなって2年が経過しましたが、最初の夫のときとは違い、いまだに過去にならないままでいます。(明石市・40代女性)

   ◆   ◆   ◆

 昨年末、父が84歳で逝去しました。

 老人保健施設と関連施設を行ったり来たりし、昨年9月、特別養護老人ホームに入りました。以前からの本人の意向もあり、延命治療はせずになるべく自然に、と話していました。

 昨年12月、特養から「体調が悪いようだから、総合病院へ診察へ行きます」と連絡があり、私も同行しました。病院のお医者さまにも本人の意向を伝えました。しかし、少し体調が良くなった際、医師から「体調も少し良くなったので、栄養分も入れられるように太い点滴に替えますが…」と言われ、お願いしました。父は2週間入院し、それ以上回復することなく亡くなりました。

 家族として、80歳を超えた本人の意向もあり、延命治療はしないと思っていましたが、医師から「回復するかもしれません」と言われ、わらにもすがる思いで少しでも長く生きられるならと思ったのは確かです。

 「延命治療は望みません」は、その時々において気持ちが揺らぎ、とても難しいと思った次第です。(加東市・50代男性)

 母は97歳で自宅で亡くなりました。私と弟の2人で見送りました。私たちに悔いはありません。

 母は持病はなかったものの、認知症のため、1分前のことも忘れるような日々でした。真夜中に外に出て、顔面を30針縫う大けがも経験しています。

 それでも自宅でみとれたのは、私と弟の考え方が一致していたからではないでしょうか?

 サラリーマンの弟は、母と2人で暮らしていました。休みは週2日でしたが、ケアマネジャー、ヘルパー、デイサービスのスタッフ、訪問看護師、医師らとたびたび話し合いを持ち、「死に方」について、考えをしっかり伝えていました。

 亡くなる1週間ぐらい前から、食事はもちろん、水分も拒むようになりましたが、私たちはそれが自然だと考え、ただ見守るだけに徹しました。本能のまま過ごすことが一番楽で美しく死ねるのだと感じました。

 私も終末期には余計な治療は望んでいません。でも、その考え方を家族と共有、またはしっかり分かってもらえていないと、望まない延命治療になるかもしれません。家族にしっかり伝えることが第一歩かもしれません。(神戸市中央区、60代女性)

   ◆   ◆   ◆

 今年4月に89歳の母を見送りました。70歳前ごろから認知症になり、長い長い介護生活でした。グループホーム、特別養護老人ホーム、病院への入院を経て、「穏やかな死を迎えさせてやりたい」と、在宅介護を決心しました。

 訪問看護、訪問リハビリ、デイサービス、月1回の「レスパイト(家族ら介護者を休ませる)入院」でリズムが整い、穏やかな日が過ぎていきました。母は「山が見たい」とよく言っていたので、山が見える部屋にベッドを置き、声を掛けて過ごしました。

 ちょうど1年になろうとしていた4月初め、いつものようにデイサービスから帰宅し、夕飯を食べて寝ました。翌朝、オムツを交換しようしたら尿がまったく出ておらず、おかしいと感じました。

 朝ご飯も食べてくれません。お茶、お水だけ少し飲みましたが、ゴックンしてくれず、血圧はエラーで測定できません。尿も出ず…、最期が近づいてきたと思いました。

 その日から亡くなるまで4日間、母とゆっくり過ごしました。いろいろな話をしたり、体をさすったり、いい時間を過ごせたと思います。孫2人、ひ孫1人も帰ってきていたので、死を間近で見ることができました。母にこんな最期を迎えさせてやりたいと思っていたことができました。笑顔で見送ることができて良かった、という思いです。

 このように母のお世話ができたのは、母の発病以来、一緒に考え、介護し、「家に連れて帰って、ゆっくり過ごさせてやろう」と言ってくれた夫がいてこそでした。本当にありがとう。(姫路市・60代女性)

   ◆   ◆   ◆

 義父は3年前、84歳の時、心不全で入院しました。心臓弁膜症で、医師から手術を勧められました。手術のリスクとして、腎機能の低下で人工透析が必要になること、認知症の悪化、寝たきりになることを告げられました。

 認知症だった義父には入院していることが理解できず、点滴の管を抜き、看護師さんに暴言、暴力をふるいました。手術を望んでいるかどうかを義父に確かめることはできませんでしたが、家に帰りたいだろうと思い、手術はせず、自宅で過ごすことに決めました。

 自宅では落ち着きを取り戻し、デイサービスに通えるようになりました。家族で岡山や四国、淡路島、山陰方面へドライブに行きました。どこに行ってもすぐに忘れてしまうけれど、その時が楽しければ良いと思い、たくさんの思い出をつくりました。大変なこともありましたが、義父はいつもにこにこと笑顔でした。

 昨年夏の終わりごろ、誤嚥(ごえん)性肺炎で体調が悪化し、寝たきり状態に。亡くなる2日前から呼吸も変わり、静かに息を引き取りました。自宅で過ごした2年半は本当に穏やかで、かわいらしいおじいちゃんでした。

 今でも、悲しみより、寂しさの方が大きいと感じています。(姫路市・60代女性)

   ◆   ◆   ◆

 兵庫県へ移って6年。3年前にがんが見つかり、治療がスタートしました。私は一人っ子で、両親はすでに他界し、息子、嫁、孫が2人。今は主人と2人暮らしです。

 がんを告知された時は私1人で、自分で全てを受け入れ、誰にも相談せず…。「私はここの地で死んでいくんだなー」と、病院から歩きながら考えました。

 両親の時も、延命治療を拒否し、2人を見送ったように、死ぬのは怖くない…。人に迷惑を掛けて、心の中で「早く死んでくれたら」と思われて死んでいく方が怖くてつらい…。

 手術して抗がん剤で治療は終わったけれど、現在、後遺症でつらい毎日です。手術をしないでがんが転移し、迷惑を掛けるのもつらい…。

 命はどの方向に進むのが良かったのか。私は今、途方に暮れています。(60代女性)

   ◆   ◆   ◆

 特別養護老人ホームで看護師と施設長をしています。以前は訪問看護師として16年間勤務し、自宅で家族に囲まれながらみとるお世話を何例も経験しました。その後、特養への異動の話があり、「施設でも在宅のようなみとりを」と受けました。

 以前の施設では、体調が悪くなると入院し、良くなると特養に帰って、病院で亡くなる、という状態でした。異動後は、本人の安楽を一番に考えたケアを提供することを心掛けました。

 誤嚥性肺炎を引き起こすような無理な食事介助はしない。食べられる物を食べられるだけ。不必要な医療処置は行わず、自然な経過で終末期を過ごしていただく。家族が希望すれば、臨死期でも外出して、思い出づくりをしてもらいます。

 本人、家族が納得される「みとり介護」を目指して取り組み、年間15~20件、行うようになりました。みとり介護を通じて、職員もやりがいを見いだし、日々の介護に良い影響が出てきています。

 国は「看取(みと)り介護加算」を付け、特養などの施設で担うよう働き掛けています。今後、ますます特養でのみとり介護が期待されてくるのではないかと思います。(赤穂市・50代女性)

2019/7/14
 

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