Aさんの部署には皆から尊敬されるBさんという先輩がいます。彼は毎朝7時半には自分の席に着き、コーヒーを片手に静かにパソコン作業を始めるのが日課でした。ただ本来の始業は9時で、Bさんがタイムカードを押すのはいつもその数分前です。
上司からも評価が高いBさんの働きぶりを見て、Aさんは「あれって実質、残業じゃないの?」「自分もそうすべきなのかな」と疑問に感じています。Bさんに直接聞いてみても、「好きでやっているからほっといておいてほしい」と言われる始末です。「早朝こっそり業務」は、法的にどのように扱われ、会社や本人にとってどのような問題があるのでしょうか。社会保険労務士法人こころ社労士事務所の香川昌彦さんに聞きました。
■「残業代は要らない」は通用しない
ー始業時間前の自主的な業務は「労働時間」になりますか
労働時間として認められます。最も重要な判断基準は、その時間が「会社の指揮命令下に置かれていたか」どうかです。Bさんのように、上司が早朝出社と業務の事実を認識しながら、何も言わずにその状況を黙認し、さらにその業務によって作成された資料などを成果物として受け取っていた場合、それは会社の指揮命令下で業務がおこなわれていたと判断されます。
本人が「残業代は要らない」と口にしていたとしても、法的な判断には何ら影響しません。労働契約の根幹は、提供された労働に対して会社が対価(賃金)を支払うことであり、労働者の一方的な意思でその原則を放棄することはできないのです。
ー会社は割増賃金を支払う義務がありますか
始業前の業務が労働時間と認められる以上、法定労働時間(原則1日8時間・週40時間)を超える場合には、会社は法で定められた割増率(時間外労働であれば25%以上)を乗じた割増賃金、つまり「残業代」を支払わなければなりません。
「早朝だから」「本人が好きでやっているから」といった理由で支払いを免れることはできず、未払いがあれば法違反の状態となります。
ー早朝出社や始業前業務の黙認にはどのような法的リスクがありますか
黙認は「同意」と同じであり、会社は極めて大きなリスクを抱えることになります。たとえば、多額の未払い賃金の遡及請求が考えられます。賃金請求権の時効は3年です。在職中は良好な関係を築いていた従業員が、退職を機に弁護士などを通じて過去3年分の未払い残業代を請求してくるケースも考えられます。
一人の従業員からの申告がきっかけで労働基準監督署の調査が入り、Bさんだけでなく、他の全従業員の労働時間管理の実態まで調査が及ぶ可能性もいなめません。社会保険料・労働保険料の追加納付や、企業イメージの著しい失墜などのリスクも考えられます。
社員の「善意」や「熱意」に甘え、適切な労働時間管理を怠ることは、もはや経営リスク以外の何物でもありません。会社を守るためには、ルールを明確にし、就業時間外は物理的に働けない環境を整備するなど、断固とした措置を講じることが不可欠です。
◆香川昌彦(かがわ・まさひこ)社会保険労務士/こころ社労士事務所代表
大阪府茨木市を拠点に、就業規則の整備や評価制度の構築、障害者雇用や同一労働同一賃金への対応などを通じて、労使がともに豊かになる職場づくりを力強くサポート。ネットニュース監修や講演実績も豊富でありながら、SNSでは「#ラーメン社労士」として情報発信を行い、親しみやすさも兼ね備えた専門家として信頼を得ている。
(まいどなニュース特約・長澤 芳子)