信じることが先か、疑うことが先かーー。9月20日に公開された映画『揺さぶられる正義』が、日本の刑事司法とメディア報道のあり方に一石を投じる衝撃作として大きな話題を呼んでいる。本作は、多くの冤罪事件を引き起こしてきた「揺さぶられっ子症候群」、通称「SBS(Shaken Baby Syndrome)」を追い続けた報道記者が自らメガホンを取ったドキュメンタリー作品。「虐待をなくす正義と冤罪をなくす正義」がぶつかる狭間で浮かび上がる、当事者たちの声を記録している。
2010年代、赤ちゃんを激しく揺さぶって虐待したとして、親や近親者、保育士などが逮捕・起訴される事件が相次ぎ、メディアはこぞって「犯人」とされる人を実名でセンセーショナルに報じた。しかし裁判の最中に医学的根拠への疑いが生じ、結果として、異例の数の無罪判決が出た。
■企業内弁護士から報道記者、そして映画監督へ
監督を務めた上田大輔さんは、関西テレビの企業内弁護士から同局報道記者に転身したという異色のキャリア。報道局所属になって間もなくSBS事件と出会い、約8年にわたってこのテーマに向き合い続けてきた。この映画の前身となるドキュメンタリー番組「引き裂かれる家族 検証・揺さぶられっ子症候群」は座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル大賞など数々の賞を受賞している。上田監督に、本作に込めた思いを聞いた。
ーー経歴がユニークでいらっしゃいますね。
上田大輔監督(以下、上田) カンテレの企業内弁護士として7年間、法務担当をしていました。テレビ番組を作る際、表現について法的に問題があるか否かの相談に乗りながら、アドバイスしたり一緒に考えたりするんですが、所詮アドバイザーはアドバイザーなんですよね。自分はプレイヤーじゃないので一線を越えられない。そのうち「自分ならここで、もう少し踏み込んだ取材をするのにな」みたいな気持ちが湧いてきて。こんなに遠回りした経歴の人はまずいないと思いますけどね(笑)。
私はかつて刑事弁護人を志していましたが、有罪率99.8%という刑事司法の現実に絶望したんです。記者としてまた別のアプローチで、刑事司法の問題に関わってみたいという気持ちが大きくなっていき、報道局への異動を願い出ました。
報道局に移って1年目に、映画『Winny』に登場する主任弁護人のモデルにもなった秋田真志弁護士が、2017年のある研究会で「揺さぶられっ子症候群」について話すということで聞きに行ってみたんです。当時私はまだ「揺さぶられっ子症候群」についてニュースのキーワードとして知っている程度で、なぜ秋田先生がこの件について語るんだろうという好奇心からでした。
■耳を疑った「医師の証言だけで有罪」という事実
ーーそこでSBS事件に出会った。
上田 これが最初の出会いでした。秋田先生はSBS事件の弁護を数多く担当し、現在「SBS検証プロジェクト」の共同代表を務める方。私が初めてお会いした当時は『揺さぶられる正義』にも登場する、当時生後1カ月の長女を虐待したと疑われて被告の立場に置かれた雪谷みどりさん(仮名)の担当をされていました。
研究会で先生が話したことに私は耳を疑いました。雪谷さんの逮捕・起訴に至った根拠が医師の証言で、医学的なエビデンスが不十分だというのです。「そんなことあるの?」と思いましたし、もし事実なら、それまでに起こった複数のSBS事件も冤罪の可能性が大いにある。もともと刑事司法の問題をやろうと思って記者になった私は、「このテーマを取材するしかない」と思いました。
ーー医師の証言だけが決め手で有罪になってしまう。なぜこんなことが起こるのでしょうか。
上田 SBS事件に関しては、長らく「3徴候」が診断基準として定着していました。硬膜下血腫、網膜出血、脳浮腫。医師の診断によってこの3つの徴候が確認できれば、「揺さぶり」と決めてかかるような傾向がありました。「とりあえず3徴候が出ていたら疑え」というような。
日本の虐待医学のほとんどがアメリカから“輸入”したものですが、2000年代後半、虐待防止の活動をしている小児科医たちが「3徴候」を日本に広めていきました。やがて3徴候は検察の捜査ハンドブックや国の虐待対応マニュアルにも載るように。しかしその頃海外では既に「3徴候での診断には医学的根拠がないのではないか」という議論がありました。それなのに、その見直しの「議論」の部分がなかなか日本に伝えられなかった。そうしたタイムラグも、数々の冤罪を引き起こしてしまった原因だと思います。
■「逆は真ならず」
ーー「揺さぶりによって3徴候が生じる」と「3徴候があるから揺さぶりである」はノットイコールということなんですね。
上田 「逆は真ならず」なんです。そもそも医師が虐待か否かを診断すべきなのかという問題もあります。警察も検察も、それからマスコミも「専門医が言ってることだから間違いないだろう」と信用してしまいがちなんですけれど、実はそもそも論理の問題だったり、確率の問題でもあるんですね。
揺さぶり以外の外力、たとえば「低い位置から転んで硬膜下出血が起こる確率」を検証するときに、分母を大きくすれば当然確率を低くできる。日本にいる赤ちゃん全員を分母にしたら、ものすごくパーセンテージを低くできるんですよ。確率が低い、だから「3徴候は揺さぶりでしか起こらない」といった主張がよく出てくる。
■最後に一緒にいた大人が虐待を疑われる
ーーたいていのケースが家庭や保育園など密室で起こるので、医師の他に誰も第三者の証言者がいないというのも問題ですね。
上田 いちばん怖いのは、3徴候が現れた赤ちゃんと最後に一緒にいた大人が自動的に疑われ、逮捕・起訴されてしまうということ。「一緒にいた大人」とはつまり、両親、祖父母、それから保育士などです。SBSは、赤ちゃんを1秒間に3往復で揺さぶる行為とされていますが、「1秒間3往復」って相当な激しさです。普通の感覚なら「そんなに激しく揺さぶれるものかな?」と疑問に思うはずなんだけれど、専門医という「権威」から「これは揺さぶりです」と強い診断が出てしまうと、疑問がどこかへ飛んでいってしまう。「思い込みの怖さ」ですね。
そうしたSBSに関わる警察・検察側の捜査の矛盾点を指摘し、「正しい情報を伝えよう」と、前述の秋田弁護士ら刑事弁護人と法学研究者たちが立ち上げたのが「SBS検証プロジェクト」です。彼らの活動によって、3徴候を拠り所とする判決が次々と覆され、現在(2025年10月)までに「SBS検証プロジェクト」が関わった無罪判決は13人にのぼります。
■事件を報じる側の暴力性を自覚させられた
ーー映画には、SBS事件で冤罪の被害に遭われた当事者の方々の悲痛な叫びも収められていますね。
上田 SBS事件の「犯人」とされた方々の多くが実名と顔をさらされて、ニュースで報じられました。こういう事件に関してマスコミは、逮捕報道は大々的にやるのに、その後の裁判についてはほとんど触れないんです。たとえその後裁判で無罪となったとしても、一度でも「犯人」のレッテルを貼られてしまった方にとっては、そのレッテルを剥がすことは非常に難しい。私自身も報道に身を置く人間として、事件を報じる側の暴力性を自覚させられる取材でした。
■誰もが冤罪になり得、誰もが無実の人を裁く可能性がある
ーーこの作品を、どんな方に観てもらいたいですか。
上田 ひとりでも多くの方に、SBS事件の「誰でも突然疑われる可能性がある」という怖さを知っていただきたいなと思います。普通の家族の中で、ある日赤ちゃんの調子が悪くなって病院に行ったら、頭の中に出血が見つかった。すると「揺さぶり」だと決めつけられ、逮捕され、起訴されてしまう。誰もが陥る可能性のある冤罪の恐ろしさが、この映画の中に収められています。
また取材しながら私自身、裁判員裁判の危うさについても考えさせられました。映画の中では3つの逆転無罪が描かれているのですが、そのうち2件は一審が裁判員裁判なんです。つまり、一般市民の中から誰もが選ばれる可能性のある裁判員が、2人の方を刑務所に送る有罪の判断をしたということになります。でも、裁判員は無実の人を裁く恐ろしさにどこまでの自覚を持って判断していたでしょうか。法廷に専門の医師が何人も出てきて「揺さぶりだ」「SBSだ」って言われたら、誰しも「あ、そうなんだな」と信じてしまうと思うんですよ。
誰もが冤罪になり得て、誰もが無実の人を刑務所に送ることができてしまう。そのことがよくわかっていただける内容になっていますので、他人ごとではなく、自分ごととしてぜひ、観ていただきたいなと思います。
(まいどなニュース特約・佐野 華英)