六甲山系豪雨災害
大雨による土石流は家々を襲った。山から駆け下りた濁流は人々の暮らしをのみ込んだ。50年前、このほど九州北部を襲った豪雨の被災地のような光景が、神戸・阪神間に広がった。死者・行方不明者98人、被災家屋3万8305戸に上った「昭和42年7月豪雨」。以降、六甲山では大規模な被害は出ていないが、その扇状地に栄えた神戸・阪神間は、地形的に豪雨に対する弱さを抱えている。各地で記録的な豪雨が相次ぐ中、自然とどう共生していけばいいのか。発生直後、調査に入った奈良大名誉教授の池田碩(ひろし)さん(78)=地質学、自然地理学=と半世紀後の被災地を歩いて考えた。(高田康夫)
▼崩壊した世継山 もろい地形にゴルフ場造成
新神戸駅から歩いて約40分。神戸市中央区葺合町の市ケ原の集落跡に着いた。
昭和42(1967)年7月、集中豪雨で南東の世継山が崩壊し、かつてここにあった集落は山津波にのまれ、21人が犠牲になった。助かった住民も離散。集落はなくなった。現在は廃屋が点在し、生い茂った木で世継山はほとんど見えない。
あの日、何が起きたのか? 当時中学3年生で、集落の入り口付近に住んでいた今井史郎さん(65)=長野県安曇野市。目の前で軽自動車ほどの岩が飛んでいく様子に、足がすくんだという。夜には「グォー」という雨音が続き、雷により停電した。
当時、大人たちから集落中心部の様子を次のように聞いたそうだ。
午後9時ごろ、数人の男性が土のうを積んでいると、世継山の鉄塔に雷が落ちた。その振動が伝わった後、斜面が崩壊。土石流は男性らの横をかすめ、多くの住民が避難していた茶屋や駐在所を襲った。駐在所の警察官の妻子が流された。茶屋では、たまたま2階に座布団を取りに行った高齢女性だけが助かった-。
昭和30年代、世継山にゴルフ場が開発された。ところが1961(昭和36)年の豪雨で一部が崩落し、中学生が犠牲になった。ずさんな開発工事が原因ではないかと裁判で争われていた。
池田さんは昭和42年豪雨直後、立命館大学の研究員として調査に入った。その崩落現場を歩き、人工的に造成された跡を確認。発生4日後の神戸新聞で、池田さんは「現場の土質は柔らかい花こう岩で、風化しつつあるもろいものだ。こんな地形を造成すること自体が問題だ」とコメントした。
ゴルフ場側は神戸市に土地を売却し、住民らに賠償。住民の中には世継山を自然に戻すよう求める声もあったが、神戸市は「手を入れ続けなければ再び崩れる恐れがある」として活用を検討し、1991年に「神戸布引ハーブ園」ができた。担当した元市職員の男性(73)は「ハーブ園の原点は災害を教訓に、環境に優しく災害に強い安全な公園を造ることだった」と振り返る。
できるだけ地形に手を加えず、広場もコースをそのまま使った。園外でも防災上問題のある木々は植え替えていった。開園から26年。男性は「まだまだ安定した森林にはなっていない」と明かす。
同市は現在、園外の森林には手を入れていない。園内にも、50年前の災害を伝えるものは何もない。なぜハーブ園ができたのか、その原点は受け継がれていない。
災害や集落のことを記憶に残そうと、今井さんはブログに記録し続けている。「当時、何キロもの山道を通学する子どもがいた。集落に住んだ人たちの営み、そしてなぜいなくなったのか。21人が亡くなった事実は決して忘れてはいけない」。そんな思いが今井さんを突き動かす。
▼濁流の宇治川商店街 地下の川 土砂にふさがれて
神戸市中央区を流れる宇治川。その上流にある再度(ふたたび)谷川沿いの山道を進むと、大勢のハイカーとすれ違う。山々をよく見ると、生えている植物が周囲と違う部分がある。「50年前に土砂が流れた場所。表面は緑で覆われていても、一皮むけばズタズタになる」と池田さんは言う。
ハイキングコースの途中、大正時代からこの谷で営業する燈籠(とうろう)茶屋に立ち寄った。経営する前中義雄さん(66)によると、昭和42年豪雨で被害はなかったが、昭和13(1938)年の阪神大水害などで被災。「うちの茶屋は災害とは切っても切り離せない」という。
妻さよ子さん(65)は、50年前のことを鮮明に覚えていた。少し下流で生まれ育ち、当時は高校生。幼い子どもを避難所に預け、外に出た近所の夫婦が流され、避難中に土石流にのまれた女性の遺体は、さよ子さん宅に運び込まれた。「思い出すだけでも怖い」
再度谷川は平野谷川と合流し、宇治川となる。河口までの約2・3キロのうち下流の約0・9キロは地下水路(暗渠(あんきょ))だ。宇治川商店街の北側で地下に流れると、神戸ハーバーランドの河口まで見えない。
50年前も宇治川は暗渠を流れていた。豪雨で山から大量の土砂と倒木が流出して暗渠の入り口をふさぎ、濁流が宇治川商店街の道路にあふれ出た。大量の流木や土砂とともに、車も流され、JR神戸線の高架付近にたまった。神戸高速鉄道の地下工事現場に水が入り込み、4階建てのビルを倒壊させた。
商店街で燃料店を営む名倉慶治さん(69)は当時大学生。三宮で遊んだ帰り、ひどい雨の中を歩いて戻った。店に着いたのは午後5時ごろ。既に水没していた。両親は避難中に流され、近隣住民に助けられた。しかし、全財産を失った父は体調を崩し、4カ月後に53歳で死亡。「当時の支援は毛布3枚だけ。ショックが大きかったと思う」
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宇治川の暗渠はその後、改修された。ほかにも鯉川、北野川、千守川など、宇治川と同様に市街地の地下を流れる河川は多い。神戸市のパンフレット「こうべの川」によると、市内の暗渠河川の総延長は約17キロで「政令市の中で随一の規模」と記す。
同市はウェブサイトで〈人口が増え、交通量も増えてくると、町を分断して流れる川はジャマモノと考えられたのです。そして上にはフタをされ、そこが道路として利用されました〉と解説。さらに〈ツケは大規模な水害という形ではね返ってきます。阪神大水害では、既に地下化されていた生田川に六甲山の土砂が大量に流れ込みました。周辺市街地は大きな被害を受け、川を地下化することへの反省も生まれました〉と続ける。
生田川は阪神大水害後、通常の河川に戻された。しかし、宇治川では〝ツケ〟を受けた反省が生かされず、50年前の惨事となった。池田さんは進言する。
「川と人間との関わりを考えてほしい。六甲山地は変わらないのに、下流は高度成長で都市化が進んだ。人間の手が加わり、より大きな災害になり得ることを忘れてはならない」
【昭和42年7月豪雨】
1967年7月9日、西日本に停滞していた梅雨前線が熱帯低気圧に刺激され、各地に記録的豪雨をもたらした。神戸市内では10日午前0時までの24時間雨量が319・4ミリに達し、土砂災害や中小河川の洪水氾濫が同時多発的に発生。死者・行方不明者は全国で369人(兵庫県内98人)に及んだ。
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