連載・特集 連載・特集 プレミアムボックス

六甲山系豪雨災害

  • 印刷
水難事故後、都賀川で実施されている幼稚園児らの避難訓練=6月23日、神戸市灘区岸地通1
拡大
水難事故後、都賀川で実施されている幼稚園児らの避難訓練=6月23日、神戸市灘区岸地通1
拡大
土砂に埋まった車を掘り出す住民ら=1967年7月10日、神戸市灘区篠原中町
拡大
土砂に埋まった車を掘り出す住民ら=1967年7月10日、神戸市灘区篠原中町
昭和42年7月豪雨で五助堰堤に土砂が流入した当時の写真(3枚をつなぎ合わせ)。現在は木々が生い茂り、ハイキングコースに=神戸市内(池田碩さん提供)
拡大
昭和42年7月豪雨で五助堰堤に土砂が流入した当時の写真(3枚をつなぎ合わせ)。現在は木々が生い茂り、ハイキングコースに=神戸市内(池田碩さん提供)

 50年前に兵庫県内で死者・行方不明者98人を出した「昭和42(1967)年7月豪雨」は、国が進めてきた砂防事業の効果が発揮された災害として紹介されることが多い。1938(昭和13)年の阪神大水害と比べ、人的、物的被害は少なかったからだ。人間の手で自然災害の脅威を克服できるのか。災害直後に調査に入った奈良大名誉教授の池田碩(ひろし)さん(78)=地質学、自然地理学=と神戸市東灘、灘区周辺の被災地を回った。(高田康夫)

▼砂防ダム「五助堰堤」

78年間で整備率は59%

 神戸市東灘区の閑静な住宅街を流れる住吉川の上流、巨大な砂防ダム「五助堰堤(えんてい)」を目指した。

 かつて川沿いには酒造りの精米のための水車があった。昭和42年7月豪雨後の神戸新聞によると、その名残の製粉所横にある住宅で裏山が崩れ、母子や親類計5人が死亡した。周辺の自治会「山田区民会」の広岡俊司会長(67)は当時高校生。青年団員として現場で捜索活動を手伝った。「住吉川はびっくりするほど真っ茶色に濁っていた」

 ただ、住吉川流域の被害は、阪神大水害と比べれば少なかった。大きな要因の一つが五助堰堤だ。

 阪神大水害の翌年、国は六甲砂防事務所を設置し、国直轄の都市砂防事業を始めた。昭和42年豪雨までに造られた砂防ダムは174基に上る。その中でも、昭和27(1952)年に完成した五助堰堤は高さ30メートル、幅78メートル、現在も六甲山系で最大級だ。

 豪雨では六甲山から流出した土砂約12万立方メートルを受け止めた。土砂が下流に流れていれば、阪神大水害と同様に大きな被害が出ていたであろう。ダム内を埋めた土砂の上にはその後、木々が成長し、まるで湿原地帯のようになっている。

 なぜこれだけの規模の砂防ダムを建設できたか。「断層です」と池田さんは言う。「断層が若いほど深い谷ができ、巨大なダムが造りやすい」と指摘する。

 しかし続けて「もし断層が動いたら?」と問い掛ける。「一時的に土砂を止めてもいつかは流れる。地震は千年に1~2回、大規模な豪雨は100年に2~3回。巨大なダムも地球科学からみれば非力なもの」

 六甲山は100万年前から大地震のたびに隆起してきた。現在もその最中にあるとされ、阪神・淡路大震災でも山頂は約12センチ隆起。山中には多くの断層が走り、五助堰堤付近にも「五助橋断層」が延びる。

 一方、豪雨は山を崩し続ける。山中からの土石流が堆積した扇状地に、神戸・阪神間の都市が形成されたのは、自然の変動からすればほんのわずかな期間だ。

 六甲砂防事務所によると、現在は砂防ダムについてボーリング調査などで断層上にないかどうかを確かめている。しかし、五助堰堤については断層上にあるのかないのかも定かではない。「阪神・淡路でも壊れなかった。ダムは毎年メンテナンスしている」とする。

 今年3月末時点で、六甲山系に完成した国の砂防ダムは544基。六甲山から流出すると推計される土砂の量と比較すれば整備の進捗(しんちょく)率は59%にすぎない。また、完成したダムは点検・補修などを続けなければ維持できない。

 六甲山から流れ出るはずだった土砂をいつまで山にとどめておくことができるか。50年前の土砂は、そんな疑問を投げ掛ける。

▼2008年水難事故の都賀川 都市化が招いた水位急上昇

 2008年7月、急な増水で児童ら5人が流される水難事故が起きた神戸市灘区の都賀川。今年6月、事故後に毎年行われる訓練後の意見交換会で、「都賀川を守ろう会」会長の岡本博文さん(87)が訴えた。

 「昭和42年の豪雨から50年。忘れたころに大きな災害がある。これを機に改めて防災に力を入れていかなければならない」

 50年前、岡本さんは都賀川沿いにある西郷小(同市灘区大石東町6)PTA会長だった。濁流は護岸を破壊、校舎の基礎部分が洗われ、床が沈み始めたという。岡本さんはロープを腰に巻き、教師らとともに図書室の本を引き上げた。

 阪神大水害で甚大な被害が出た都賀川流域では、地下を流れていた上流の六甲川や杣谷(そまたに)川が地上を流れる通常の河川に戻され、砂防ダムなども整備された。それでも昭和42年7月豪雨では、表六甲ドライブウェイの各所が崩れ、六甲ケーブル下駅は土砂で埋まった。六甲川と杣谷川の合流地点付近の住宅街でも被害があった。

 そのころ、神戸市は鶴甲団地を整備していた。民間の住宅開発も進んでいた。その後、川には大量の生活排水が流れ、川底にはごみやヘドロがたまった。住民は1976年、清流を取り戻そうと同会を結成し、美化活動に取り組んだ。魚道なども整備され、アユがさかのぼる川に戻った。

 2008年の水難事故は、そんな川で起きた。川の水位は10分間で約1・3メートル上昇。周辺の住宅街には、その10分間で10~20ミリ超の激しい雨が降っていた。水位上昇は、50年前のような六甲山での大雨ではなく、住宅街に網目のように張り巡らされた雨水管から流れ出た雨水がもたらした。

 「以前はこんな急激に水位が上がることはなかった」と岡本さん。「住宅の庭は土からコンクリートになり、未舗装の道路もほとんどない。水が蓄えられなくなっている」と指摘する。

 50年で進んだ都市化により、新たなリスクを抱えることになったのだ。

                   ■

 気象庁のアメダスによると、近年、1時間に50ミリ以上の「非常に激しい雨」の発生回数は増加。今回の九州北部の豪雨では、福岡県朝倉市や大分県日田市などで記録的な雨量による土砂災害が相次いだ。九州最大の筑後川も氾濫危険水位を超えた。

 筑後川流域の福岡県久留米市出身の池田さんは「豪雨災害は繰り返す」との思いを強くし、64年前を振り返った。昭和28(1953)年西日本水害だ。筑後川が決壊し、筑後地方最大の被害をもたらした。当時中学生だった池田さんの自宅は2階まで水没。しかし、明治・大正の水害を教訓に自宅2階に備えていた舟で避難することができた。

 池田さんは「神戸も一緒」としつつ言葉をつなぐ。「災害がない場所に豊かな地域はない。災害から学び強くなる。そんな〝災害文化〟で乗り越えることが必要だ」

 神戸・阪神間は、海と山に囲まれた豊かさがあるからこそ、豪雨災害や地震が切り離せない。その宿命に正面から向き合いたい。

2017/7/17

天気(5月11日)

  • 23℃
  • ---℃
  • 30%

  • 20℃
  • ---℃
  • 20%

  • 23℃
  • ---℃
  • 20%

  • 23℃
  • ---℃
  • 40%

お知らせ