





がれきの中から遺体を運び出す自衛隊員=1995年1月18日午前、神戸市長田区御船通
地震発生直後、JR兵庫駅前の公団住宅から見た長田区方面。左端が兵庫駅、中央は駅前の商業ビル=17日午前6時ごろ、神戸市兵庫区
着の身着のままで飛び出してきた老夫婦らしき男女=17日午前、神戸市兵庫区塚本通4
アーケードが焼け落ちた商店街。無事を伝える書き置きが、ビールケースに張られていた=18日、神戸市長田区の菅原商店街
カップ麺や缶飲料をセットにして販売するスーパー。大勢の人が列を作った=18日午前、神戸市長田区五番町
陥没した港の岸壁。トラックが半分水没したまま放置されていた=19日、神戸市兵庫区出在家町1
地震発生から一夜明けた朝。「毛布、返してください。出動しますんで」と肩を揺すられ、目が覚めた。ヘルメット姿の自衛隊員がのぞき込む。神戸市長田区の長田警察署5階、記者室前の廊下。昨夜はここで身動きが取れなくなり、自衛隊の備品を無断で拝借して横になっていた。
「ああ、すみません」。まだ暖かい毛布を受け取ると、隊員は足早に去って行った。寝ぼけた頭で昨日からのことを思い起こす。消防のサイレンが響き渡っていた。
◆
1995年当時は、神戸市西部の警察署を担当するキャップ。数カ月追ってきた事件で、1月17日は、兵庫署長に話を聞く約束の日だった。
突然の揺れが収まった後、奇妙な静寂が辺りを包んでいた。JR兵庫駅前の半壊した自宅ビルから西を見ると、黒煙が幾筋も上がっていた。ドアを蹴り開けて外に出る。三宮の本社に行き、同僚と2人、車で神戸の街へ飛び出した。見慣れたビルが崩れている。毛布をかぶり、人々が放心状態でたたずむ。ラジオは「芦屋で六十数人死亡の情報」などと報じていた。まさか。全貌が分からない。見回せば、普段なら1面トップとなる光景が無数に広がっていた。
夜、長田署に入った。裸電球の下、災害救援の自衛隊員が署内にあふれていた。次々に書き出される犠牲者の名前。取材メモに書き写す。いくら書いても終わらず、途中であきらめた。5階の記者室に上がると、大渋滞と何カ所もの火の手が見えた。動く気力はもう、なかった。
◆
自衛隊員に毛布を返し、同僚2人と長田署を出た。「取材しながら食料確保。○時○分に集合な」
ふらふらと歩く。複数の自衛隊員が、がれきの中を捜索していた。遺体発見。かぶせた布団から足先が見える。男性だろうか。戸板に載せられ道路脇へ。目印なのか、段ボールの切れ端が布団の上に置かれた。空腹と喉の渇きに襲われながらも、ただ写真を撮り続けた。
その後同僚と落ち合った。手に入れた食料を一斉に出し合う。バナナ、ごぼう天、ベビーシュークリーム。「食い合わせ、悪そうや」。それでも路上でむさぼるように食べた。周囲では相変わらず、サイレンが鳴り響いていた。
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