箱の中のフィルムが増えていく。神戸市中央区のJR三ノ宮駅南にある、神戸新聞会館2階の編集局。街で撮影し、巻き上げてカメラから出したフィルムは、片隅の箱に入れるよう指示された。だが現像される気配はない。壁が崩れ、窓ガラスが散乱する社屋を目にすればそれもうなずける。所属していた社会部は停電で薄暗い。窓からの光で、今見てきたことを原稿用紙に書き始めた。
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巨大な何者かに部屋をわしづかみにされ、力いっぱい振り回された。地震というよりそんな感じだった。気づくとたんすの下敷きになっている。苦しくて動けない。力を振り絞って隙間をつくり、何とか外に出た。ガラス棚や冷蔵庫が倒れ、飛び出た食器が割れている。余震。怖くて壁にへばりつく。自宅は神戸市東灘区住吉本町のマンション3階。1階で隣人がカーラジオのニュースを聞いている。「神戸は震度6」。そのときは阪神・淡路大震災の呼称もなかった。後に史上初の震度7となる。
少し明るくなった。向かいの民家が3軒とも倒壊している。遠くに火が見える。黒煙を数えると10本あった。自宅の周りを歩く。丸ごと投げ出されたような家。大きな地割れ。ガスの臭い。JR住吉駅前のコープこうべ本部ビルが倒壊していた。歩いて三宮方面に向かうことにした。
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国道2号付近を西へ。東灘区と灘区の境にある石屋川で、バケツリレーを撮影する。灘区では、見通す限り家屋と電柱が傾いた道が続く。1台も消防車が来ない火災を初めて見た。サイレンの音もなく、不気味に静まり返る。燃える様子を住民が見守り、輪になって話し込んでいる。カメラを向けにくい。怒鳴られても仕方がないと思いながらシャッターを切った。別の場所では、高校生ぐらいの少女がしゃがみ込み、火の手を前に「お母さん!」と叫んでいた。その姿は今も忘れられないが、写真を撮ることはできなかった。
阪神電車の新在家駅と大石駅の間では、脱線した電車から乗客を救い出す作業中だった。そこで同期入社の記者と偶然会い、彼の車で三宮に行く。大きなビルが横倒しになったがれきの街は映画のセットのようで、まるで現実感がない。本社に着いたのは午前11時ごろだった。
2019/11/20【20】出会った一人一人の顔 今も忘れない 写真部記者(当時)藤家武 映像写真部次長2020/3/25
【19】それでも撮った。感じていないふりをして 丹波総局員(当時)田中靖浩淡路総局長2020/3/18
【18】国生み神話の神社 大鳥居は無残に 津名支局長(当時)今中秀穂神戸新聞総合印刷・地域編集部次長2020/3/11
【17】3日間の暗闇「神様、なぜ」と女性は叫んだ 香住支局長(当時)中部剛報道部デスク2020/3/4
【16】取材か救助か 迷う時間はなかった 社会部記者(当時)浜田豊彦整理部デスク2020/2/26
【15】病院は薄暗く、不思議なほど静かだった 社会部記者(当時)網麻子文化部デスク2020/2/19
【14】地滑り現場は1日過ぎても煙が噴き出していた 姫路支社記者(当時)菅野繁整理部第二部長2020/2/12
【13】駆け付けた海兵隊員に被災者は笑顔を見せた 姫路支社記者(当時)藤原学報道部デスク2020/2/5
【12】「今起きていることをしっかり記録して」 社会部記者(当時)陳友昱運動部長2020/1/29
【11】取材経験ゼロ 写真だけはと街に出た 審査部記者(当時)堀井正純文化部記者2020/1/22
【10】学生の遺体に カメラを向けられなかった 文化部記者(当時)長沼隆之報道部長2020/1/15
【9】何のために書くのか 被災者から教わった 阪神総局記者・宝塚市担当(当時)小山優報道部デスク 2020/1/8