人は壮絶な死に直面したとき、「悲しい」という感情をはるかに超えた表情を見せる。それをどう表現すべきなのか、阪神・淡路大震災から25年たった今も整理はつかない。強いて言うなら「不思議な透明感」。そんな空気が被災地を包んでいた。
姫路支社編集部員だった私は、17日の朝、同僚と車で阪神総局(兵庫県西宮市和上町)を目指した。約5時間かけ西宮市北部の盤滝トンネルを抜けると、目に飛び込んできたのは、市街地から上がる黒煙だった。巨岩が道路をふさぎ、1階部分が押しつぶされた住宅があちこちにあった。
午後10時。同市中須佐町の生き埋め現場に立っていた。取材の後先が決められないような光景に戸惑い、悩んだ。状況を総局に報告すると、当時のデスクから一喝された。
「すべてを撮るんや。すべてを聞くんや。すべてを伝えるんや」。感情を押し殺すように、無我夢中でシャッターを切った。
避難所となっていた市立安井小学校で夜を明かした。無事を喜び合い、余震の恐怖で身を寄せ合う被災者のそばに、毛布にくるまれた遺体が次々と運ばれてきた。断水で遺体を清めることもできず、ウエットティッシュを使い、言葉もないまま黙々と遺体をふく遺族もいた。
翌18日午前10時、同市宮西町の「宮西マンション」前にいた。チェーンソーでの救出作業中、たまっていたガスに引火し火災が起きた。消防車が到着できない中、3時間燃え続けた。生き埋めだった女性(33)と長男(14)、長女(9)、次女(8)、再婚予定の男性(36)の計5人が亡くなった。私の横で救出を待った女性の姉は、つぶやいた。
「押しつぶされた上に、火に包まれるなんて…」
◆
その後、西宮市役所の担当となり、被災情報を収集した。その傍ら、橋桁が落下した阪神高速道路の災害現場や酒蔵なども取材した。
鮮明に覚えていることがある。米国領事館総領事公邸(同市)の救護に駆け付けた米海兵隊岩国航空基地の隊員らが、液状化で断水状態だった浜甲子園団地で、給水を行ったことだ。大統領や国防長官の指示なしに動くことは極めて異例だった。海兵隊員らの自主行動に、被災者が見せた笑顔が忘れられない。
2020/2/5【20】出会った一人一人の顔 今も忘れない 写真部記者(当時)藤家武 映像写真部次長2020/3/25
【19】それでも撮った。感じていないふりをして 丹波総局員(当時)田中靖浩淡路総局長2020/3/18
【18】国生み神話の神社 大鳥居は無残に 津名支局長(当時)今中秀穂神戸新聞総合印刷・地域編集部次長2020/3/11
【17】3日間の暗闇「神様、なぜ」と女性は叫んだ 香住支局長(当時)中部剛報道部デスク2020/3/4
【16】取材か救助か 迷う時間はなかった 社会部記者(当時)浜田豊彦整理部デスク2020/2/26
【15】病院は薄暗く、不思議なほど静かだった 社会部記者(当時)網麻子文化部デスク2020/2/19
【14】地滑り現場は1日過ぎても煙が噴き出していた 姫路支社記者(当時)菅野繁整理部第二部長2020/2/12
【13】駆け付けた海兵隊員に被災者は笑顔を見せた 姫路支社記者(当時)藤原学報道部デスク2020/2/5
【12】「今起きていることをしっかり記録して」 社会部記者(当時)陳友昱運動部長2020/1/29
【11】取材経験ゼロ 写真だけはと街に出た 審査部記者(当時)堀井正純文化部記者2020/1/22
【10】学生の遺体に カメラを向けられなかった 文化部記者(当時)長沼隆之報道部長2020/1/15
【9】何のために書くのか 被災者から教わった 阪神総局記者・宝塚市担当(当時)小山優報道部デスク 2020/1/8