焼け切れた電線が垂れ下がり、黒焦げの車も転がっている。がれきの上を歩き続け、足の裏が痛んだ。
震災の3日後。神戸市長田区にいた。ドラマで見た空襲後の町と同じ。信じがたい現実が広がっていた。
ふだん取材対象にカメラを向けるとき、対象の特徴を際立たせるよう工夫する。だが、被災地のどこにカメラを向けても圧倒的な現実がファインダーに収まりきらない。マンションの上階に駆け上がった。
焦土の町を見渡し、カメラを向けたとき、グラッときた。ビルが激しくきしむ。「崩れるな」。かがみ込んで祈った。揺れが収まっても、しばらく鼓動が早まったままだった。
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倒壊家屋から70代女性が3日ぶりに救助されたと聞き、病院に向かった。しかし、女性はいない。3日も閉じ込められていたのに、病院から出て避難所に向かったという。病院は、女性よりも深刻な患者たちであふれかえっていたからだ。
女性は避難所で一人ぽつんと座り込んでいた。3日間、暗闇の中で何度もこう叫び続けたという。
「神様、私がなんでこんな目に遭わなあかんの。一生懸命、まじめに生きてきたのに」
住所と名前を聞くと、おぼつかない手つきで名前だけ取材ノートに書いてくれた。在日朝鮮人だという。差別にさらされ、貧しさにも耐えながら懸命に生きてきた女性に、追い打ちをかけたのが震災だった。
この女性の記事は、わずかな行数。神戸新聞社も被災し、京都新聞の協力を得て新聞発行ができたものの、薄っぺらな新聞だった。
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1週間ほどで、もとの持ち場である但馬に帰ったが、まだ、地域版は復旧していない。1枚の用紙に「但馬版」をつくり、折り込み広告と一緒に挟み込んだ。新聞紙面を持たない新聞記者。あのときほど、悔しくて、もどかしいことはなかった。
震災の不条理、悲しみ、苦しみ…。その中から芽生えた希望、ぬくもり、支え合い…。書きたいことがたくさんあるのに書けなかった。その渇きは今も変わらない。
震災という圧倒的な現実をどこまで伝え切れたのか。まだ、ほんの一部でしかない。1995年に起きた現実は今も続いている。
2020/3/4【20】出会った一人一人の顔 今も忘れない 写真部記者(当時)藤家武 映像写真部次長2020/3/25
【19】それでも撮った。感じていないふりをして 丹波総局員(当時)田中靖浩淡路総局長2020/3/18
【18】国生み神話の神社 大鳥居は無残に 津名支局長(当時)今中秀穂神戸新聞総合印刷・地域編集部次長2020/3/11
【17】3日間の暗闇「神様、なぜ」と女性は叫んだ 香住支局長(当時)中部剛報道部デスク2020/3/4
【16】取材か救助か 迷う時間はなかった 社会部記者(当時)浜田豊彦整理部デスク2020/2/26
【15】病院は薄暗く、不思議なほど静かだった 社会部記者(当時)網麻子文化部デスク2020/2/19
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【11】取材経験ゼロ 写真だけはと街に出た 審査部記者(当時)堀井正純文化部記者2020/1/22
【10】学生の遺体に カメラを向けられなかった 文化部記者(当時)長沼隆之報道部長2020/1/15
【9】何のために書くのか 被災者から教わった 阪神総局記者・宝塚市担当(当時)小山優報道部デスク 2020/1/8