連載・特集 連載・特集 プレミアムボックス

  • 印刷
避難所で出会い、話を聞いた女性=1995年1月20日、神戸市長田区 避難所となった学校には、無事や連絡先を知らせるメッセージを記した紙が張られた=20日、神戸市長田区 長田区を代表する製靴メーカーが全壊、全焼した=19日、神戸市長田区菅原通 高い位置から見渡そうとマンションの上に駆け上がった=19日、神戸市長田区四番町 温かい食べ物がなく、避難所ではボランティアらが炊き出しで避難してきた人を慰めた=20日、神戸市長田区 トラックの荷台を急ごしらえの住居にする人もいた=20日、神戸市長田区
拡大

避難所で出会い、話を聞いた女性=1995年1月20日、神戸市長田区

避難所となった学校には、無事や連絡先を知らせるメッセージを記した紙が張られた=20日、神戸市長田区

長田区を代表する製靴メーカーが全壊、全焼した=19日、神戸市長田区菅原通

高い位置から見渡そうとマンションの上に駆け上がった=19日、神戸市長田区四番町

温かい食べ物がなく、避難所ではボランティアらが炊き出しで避難してきた人を慰めた=20日、神戸市長田区

トラックの荷台を急ごしらえの住居にする人もいた=20日、神戸市長田区

  • 避難所で出会い、話を聞いた女性=1995年1月20日、神戸市長田区
  • 避難所となった学校には、無事や連絡先を知らせるメッセージを記した紙が張られた=20日、神戸市長田区
  • 長田区を代表する製靴メーカーが全壊、全焼した=19日、神戸市長田区菅原通
  • 高い位置から見渡そうとマンションの上に駆け上がった=19日、神戸市長田区四番町
  • 温かい食べ物がなく、避難所ではボランティアらが炊き出しで避難してきた人を慰めた=20日、神戸市長田区
  • トラックの荷台を急ごしらえの住居にする人もいた=20日、神戸市長田区

避難所で出会い、話を聞いた女性=1995年1月20日、神戸市長田区 避難所となった学校には、無事や連絡先を知らせるメッセージを記した紙が張られた=20日、神戸市長田区 長田区を代表する製靴メーカーが全壊、全焼した=19日、神戸市長田区菅原通 高い位置から見渡そうとマンションの上に駆け上がった=19日、神戸市長田区四番町 温かい食べ物がなく、避難所ではボランティアらが炊き出しで避難してきた人を慰めた=20日、神戸市長田区 トラックの荷台を急ごしらえの住居にする人もいた=20日、神戸市長田区

避難所で出会い、話を聞いた女性=1995年1月20日、神戸市長田区

避難所となった学校には、無事や連絡先を知らせるメッセージを記した紙が張られた=20日、神戸市長田区

長田区を代表する製靴メーカーが全壊、全焼した=19日、神戸市長田区菅原通

高い位置から見渡そうとマンションの上に駆け上がった=19日、神戸市長田区四番町

温かい食べ物がなく、避難所ではボランティアらが炊き出しで避難してきた人を慰めた=20日、神戸市長田区

トラックの荷台を急ごしらえの住居にする人もいた=20日、神戸市長田区

  • 避難所で出会い、話を聞いた女性=1995年1月20日、神戸市長田区
  • 避難所となった学校には、無事や連絡先を知らせるメッセージを記した紙が張られた=20日、神戸市長田区
  • 長田区を代表する製靴メーカーが全壊、全焼した=19日、神戸市長田区菅原通
  • 高い位置から見渡そうとマンションの上に駆け上がった=19日、神戸市長田区四番町
  • 温かい食べ物がなく、避難所ではボランティアらが炊き出しで避難してきた人を慰めた=20日、神戸市長田区
  • トラックの荷台を急ごしらえの住居にする人もいた=20日、神戸市長田区

 焼け切れた電線が垂れ下がり、黒焦げの車も転がっている。がれきの上を歩き続け、足の裏が痛んだ。

 震災の3日後。神戸市長田区にいた。ドラマで見た空襲後の町と同じ。信じがたい現実が広がっていた。

 ふだん取材対象にカメラを向けるとき、対象の特徴を際立たせるよう工夫する。だが、被災地のどこにカメラを向けても圧倒的な現実がファインダーに収まりきらない。マンションの上階に駆け上がった。

 焦土の町を見渡し、カメラを向けたとき、グラッときた。ビルが激しくきしむ。「崩れるな」。かがみ込んで祈った。揺れが収まっても、しばらく鼓動が早まったままだった。

     ◆

 倒壊家屋から70代女性が3日ぶりに救助されたと聞き、病院に向かった。しかし、女性はいない。3日も閉じ込められていたのに、病院から出て避難所に向かったという。病院は、女性よりも深刻な患者たちであふれかえっていたからだ。

 女性は避難所で一人ぽつんと座り込んでいた。3日間、暗闇の中で何度もこう叫び続けたという。

 「神様、私がなんでこんな目に遭わなあかんの。一生懸命、まじめに生きてきたのに」

 住所と名前を聞くと、おぼつかない手つきで名前だけ取材ノートに書いてくれた。在日朝鮮人だという。差別にさらされ、貧しさにも耐えながら懸命に生きてきた女性に、追い打ちをかけたのが震災だった。

 この女性の記事は、わずかな行数。神戸新聞社も被災し、京都新聞の協力を得て新聞発行ができたものの、薄っぺらな新聞だった。

     ◆

 1週間ほどで、もとの持ち場である但馬に帰ったが、まだ、地域版は復旧していない。1枚の用紙に「但馬版」をつくり、折り込み広告と一緒に挟み込んだ。新聞紙面を持たない新聞記者。あのときほど、悔しくて、もどかしいことはなかった。

 震災の不条理、悲しみ、苦しみ…。その中から芽生えた希望、ぬくもり、支え合い…。書きたいことがたくさんあるのに書けなかった。その渇きは今も変わらない。

 震災という圧倒的な現実をどこまで伝え切れたのか。まだ、ほんの一部でしかない。1995年に起きた現実は今も続いている。

2020/3/4
 

天気(9月8日)

  • 33℃
  • ---℃
  • 40%

  • 33℃
  • ---℃
  • 50%

  • 34℃
  • ---℃
  • 20%

  • 34℃
  • ---℃
  • 40%

お知らせ