あの日、兵庫県西宮市愛宕山の自宅2階にいた。前夜の深酒のせいか、眠りは短くも深かった。
爆弾の破裂に似た音で目が覚め、ほぼ同時に幾筋かの青い光が窓の外を駆け抜けた。縦と横の激しい揺れで、布団の上に本棚とたんすが倒れてきた。左肩に激痛が走った。動けない。「助けて!」。大声で叫ぶが、外に逃げた家族には届かない。父らに布団から引きずり出されたのは、1時間近くたってからだった。
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着替えて玄関先に出た瞬間、足がすくんだ。近くのマンションが傾いていた。「関学生の下宿がつぶれた。手を貸してくれ!」。近所の人が叫んでいた。父や隣人らと走った。2人の遺体が運び出された。眠るように穏やかな顔をした学生に、持っていたカメラは向けられなかった。
当時は文化部員。本社に電話をかけ続けたがつながらない。徒歩で、前年春まで勤務した同市和上町の阪神総局を目指した。途中、誰かが「イナイチ(国道171号)の陸橋が落ちた」と話していた。現場へ向かう。道は消え、陸橋は阪急今津線の線路に覆いかぶさっていた。数台の車がぐしゃぐしゃに壊れていた。
興奮はなく、どこか冷めていた。感覚がまひしていた。阪神総局に着いたのは昼すぎ。「生きとったか」。同僚の言葉がうれしかった。
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その日は、芦屋市内のマンション倒壊現場で一夜を明かした。
十数人が埋まっていた。救助作業は夜を徹して続いた。十数時間ぶりに救出された人。遺体で見つかる人。悲喜が交錯していた。
外は鋭く冷え込んでいた。救出を待つ家族が、放心した顔で立っていた。消防や自衛隊員が照らすほのかな明かりが、彼らの姿を闇の中に浮かび上がらせている。
ふと足元を見た。土まみれの年賀状が散らばっていた。足跡の付いた1枚を手に取った。子どもの字だった。ほんの半月前、笑顔でこの年賀状を見ていたのだろう。そう思うと、胸が引き裂かれそうになった。何枚かを掘り出して、踏まれないように、傍らにそっと置いた。
書いても書いても記事が載ることはなかった。取材というより、自分自身と、街の人々の「生」を確認する作業だった。
2020/1/15【20】出会った一人一人の顔 今も忘れない 写真部記者(当時)藤家武 映像写真部次長2020/3/25
【19】それでも撮った。感じていないふりをして 丹波総局員(当時)田中靖浩淡路総局長2020/3/18
【18】国生み神話の神社 大鳥居は無残に 津名支局長(当時)今中秀穂神戸新聞総合印刷・地域編集部次長2020/3/11
【17】3日間の暗闇「神様、なぜ」と女性は叫んだ 香住支局長(当時)中部剛報道部デスク2020/3/4
【16】取材か救助か 迷う時間はなかった 社会部記者(当時)浜田豊彦整理部デスク2020/2/26
【15】病院は薄暗く、不思議なほど静かだった 社会部記者(当時)網麻子文化部デスク2020/2/19
【14】地滑り現場は1日過ぎても煙が噴き出していた 姫路支社記者(当時)菅野繁整理部第二部長2020/2/12
【13】駆け付けた海兵隊員に被災者は笑顔を見せた 姫路支社記者(当時)藤原学報道部デスク2020/2/5
【12】「今起きていることをしっかり記録して」 社会部記者(当時)陳友昱運動部長2020/1/29
【11】取材経験ゼロ 写真だけはと街に出た 審査部記者(当時)堀井正純文化部記者2020/1/22
【10】学生の遺体に カメラを向けられなかった 文化部記者(当時)長沼隆之報道部長2020/1/15
【9】何のために書くのか 被災者から教わった 阪神総局記者・宝塚市担当(当時)小山優報道部デスク 2020/1/8