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延焼の恐れがあるため避難所から運び出され、路上に並べられた遺体=1995年1月18日夜、神戸市東灘区本山中町1、本山第三小学校前 焼け跡では家族が見守る中、行方不明者の捜索が続いた=19日午後、神戸市須磨区千歳町2 がれきをかき分け、皿の上に遺骨を拾い集める人たち=19日午前、神戸市長田区菅原通3 避難した先でおにぎりを配られ、言葉を交わす女性=17日夜、神戸市灘区、灘警察署 被災地のあちこちに、犠牲者を悼む花束が置かれた=21日午前、神戸市長田区若松町 冗談を言い合いながら、炊き出しのラーメンを食べる。彼らの笑顔に救われた=21日午後、神戸市長田区、御蔵小学校
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延焼の恐れがあるため避難所から運び出され、路上に並べられた遺体=1995年1月18日夜、神戸市東灘区本山中町1、本山第三小学校前

焼け跡では家族が見守る中、行方不明者の捜索が続いた=19日午後、神戸市須磨区千歳町2

がれきをかき分け、皿の上に遺骨を拾い集める人たち=19日午前、神戸市長田区菅原通3

避難した先でおにぎりを配られ、言葉を交わす女性=17日夜、神戸市灘区、灘警察署

被災地のあちこちに、犠牲者を悼む花束が置かれた=21日午前、神戸市長田区若松町

冗談を言い合いながら、炊き出しのラーメンを食べる。彼らの笑顔に救われた=21日午後、神戸市長田区、御蔵小学校

  • 延焼の恐れがあるため避難所から運び出され、路上に並べられた遺体=1995年1月18日夜、神戸市東灘区本山中町1、本山第三小学校前
  • 焼け跡では家族が見守る中、行方不明者の捜索が続いた=19日午後、神戸市須磨区千歳町2
  • がれきをかき分け、皿の上に遺骨を拾い集める人たち=19日午前、神戸市長田区菅原通3
  • 避難した先でおにぎりを配られ、言葉を交わす女性=17日夜、神戸市灘区、灘警察署
  • 被災地のあちこちに、犠牲者を悼む花束が置かれた=21日午前、神戸市長田区若松町
  • 冗談を言い合いながら、炊き出しのラーメンを食べる。彼らの笑顔に救われた=21日午後、神戸市長田区、御蔵小学校

延焼の恐れがあるため避難所から運び出され、路上に並べられた遺体=1995年1月18日夜、神戸市東灘区本山中町1、本山第三小学校前 焼け跡では家族が見守る中、行方不明者の捜索が続いた=19日午後、神戸市須磨区千歳町2 がれきをかき分け、皿の上に遺骨を拾い集める人たち=19日午前、神戸市長田区菅原通3 避難した先でおにぎりを配られ、言葉を交わす女性=17日夜、神戸市灘区、灘警察署 被災地のあちこちに、犠牲者を悼む花束が置かれた=21日午前、神戸市長田区若松町 冗談を言い合いながら、炊き出しのラーメンを食べる。彼らの笑顔に救われた=21日午後、神戸市長田区、御蔵小学校

延焼の恐れがあるため避難所から運び出され、路上に並べられた遺体=1995年1月18日夜、神戸市東灘区本山中町1、本山第三小学校前

焼け跡では家族が見守る中、行方不明者の捜索が続いた=19日午後、神戸市須磨区千歳町2

がれきをかき分け、皿の上に遺骨を拾い集める人たち=19日午前、神戸市長田区菅原通3

避難した先でおにぎりを配られ、言葉を交わす女性=17日夜、神戸市灘区、灘警察署

被災地のあちこちに、犠牲者を悼む花束が置かれた=21日午前、神戸市長田区若松町

冗談を言い合いながら、炊き出しのラーメンを食べる。彼らの笑顔に救われた=21日午後、神戸市長田区、御蔵小学校

  • 延焼の恐れがあるため避難所から運び出され、路上に並べられた遺体=1995年1月18日夜、神戸市東灘区本山中町1、本山第三小学校前
  • 焼け跡では家族が見守る中、行方不明者の捜索が続いた=19日午後、神戸市須磨区千歳町2
  • がれきをかき分け、皿の上に遺骨を拾い集める人たち=19日午前、神戸市長田区菅原通3
  • 避難した先でおにぎりを配られ、言葉を交わす女性=17日夜、神戸市灘区、灘警察署
  • 被災地のあちこちに、犠牲者を悼む花束が置かれた=21日午前、神戸市長田区若松町
  • 冗談を言い合いながら、炊き出しのラーメンを食べる。彼らの笑顔に救われた=21日午後、神戸市長田区、御蔵小学校

 1月18日夜、神戸市東灘区で民家火災が起き、避難所の本山第三小学校に延焼する可能性があるという情報で、数人の記者と車で向かった。

 どの道も大渋滞で、JR神戸駅近くの臨時編集局から現場まで2時間もかかったと思う。国道2号辺りから煙が見え、近づくと、倒壊家屋で消火活動が続いていた。学校までは及んでいなかったが、道を挟んだ校庭で数人が不安げに見守っていた。

 「みんなあっちにおるで」。指さした校門側へ回り込むと、暗がりに人だかりができていた。毛布にくるまる人。荷物を足元にまとめている人。体育館や教室に避難していた人たちが歩道を埋め、寒さに身を寄せ合いながら途方に暮れていた。

 東側の道には布団が並べられ、誰かが横になっているのが分かった。

 学校に安置されていた犠牲者の遺体も、避難者が運び出していた。掛けられた布団や毛布の上に、数本の切り花と、住所や名前が書かれた紙切れが載せられていた。冷たいアスファルト上の畳に、遺体が何体も何体も並んでいく。それまで、数字ばかり増える犠牲者に実感がわいていなかったと思う。「命を奪う。これが震災なんや」。目の前で最悪の現実を突きつけられた。

     ◆

 17日の朝に神戸市須磨区北部の自宅を出てから、歩を進めるたびに被害がひどくなっていった。崩れ落ちたビルや階下が押しつぶされた家屋、大規模火災、生活の混乱。とにかく目にする状況を撮らなければと焦っていた。でも、なかなかシャッターが押せなかった。胸を締め付けられる場面ばかり。ちゃんと言葉をかけられず、被災した人の感情を逆なでしたこともあったと思う。レンズを向けるのがこれほどつらいなんて、覚悟もできていなかった。

     ◆

 18日の夜中、臨時編集局に携帯自動現像機が設置され、翌日から自社出稿も始まった。ただ、掲載できる写真は1日数枚。薬品の在庫も限りがあり、現像するフィルムは確実にニュースとして扱う写真に限られた。デスクが判断し、これだというフィルムから現像されていく。

 避難所を回り「ちゃんと伝えてや」と励まされることもあったが、最初の1週間、掲載された自分の写真は一枚もなかった。

2019/12/25
 

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