1月18日夜、神戸市東灘区で民家火災が起き、避難所の本山第三小学校に延焼する可能性があるという情報で、数人の記者と車で向かった。
どの道も大渋滞で、JR神戸駅近くの臨時編集局から現場まで2時間もかかったと思う。国道2号辺りから煙が見え、近づくと、倒壊家屋で消火活動が続いていた。学校までは及んでいなかったが、道を挟んだ校庭で数人が不安げに見守っていた。
「みんなあっちにおるで」。指さした校門側へ回り込むと、暗がりに人だかりができていた。毛布にくるまる人。荷物を足元にまとめている人。体育館や教室に避難していた人たちが歩道を埋め、寒さに身を寄せ合いながら途方に暮れていた。
東側の道には布団が並べられ、誰かが横になっているのが分かった。
学校に安置されていた犠牲者の遺体も、避難者が運び出していた。掛けられた布団や毛布の上に、数本の切り花と、住所や名前が書かれた紙切れが載せられていた。冷たいアスファルト上の畳に、遺体が何体も何体も並んでいく。それまで、数字ばかり増える犠牲者に実感がわいていなかったと思う。「命を奪う。これが震災なんや」。目の前で最悪の現実を突きつけられた。
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17日の朝に神戸市須磨区北部の自宅を出てから、歩を進めるたびに被害がひどくなっていった。崩れ落ちたビルや階下が押しつぶされた家屋、大規模火災、生活の混乱。とにかく目にする状況を撮らなければと焦っていた。でも、なかなかシャッターが押せなかった。胸を締め付けられる場面ばかり。ちゃんと言葉をかけられず、被災した人の感情を逆なでしたこともあったと思う。レンズを向けるのがこれほどつらいなんて、覚悟もできていなかった。
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18日の夜中、臨時編集局に携帯自動現像機が設置され、翌日から自社出稿も始まった。ただ、掲載できる写真は1日数枚。薬品の在庫も限りがあり、現像するフィルムは確実にニュースとして扱う写真に限られた。デスクが判断し、これだというフィルムから現像されていく。
避難所を回り「ちゃんと伝えてや」と励まされることもあったが、最初の1週間、掲載された自分の写真は一枚もなかった。
2019/12/25【20】出会った一人一人の顔 今も忘れない 写真部記者(当時)藤家武 映像写真部次長2020/3/25
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