何もできなかったという悔いだけが残り、ずっとその時の記憶があいまいだった。それが1枚の写真によってよみがえった。
阪神・淡路大震災直後の神戸新聞社を描いたノンフィクションを基にした、2010年放送の再現ドラマ「神戸新聞の7日間」。その中で、当時の編集局で撮った集合写真が映し出された。隅っこに自分もいた。以来、断片的だった記憶がつながり、思い出を語れるようになった。
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神戸市兵庫区下祇園町のワンルームマンションの室内は、大事には至らなかった。空が白み始め、窓の下にいた向かいの家の住人と声を交わした。大阪・吹田の実家の母に電話で無事を知らせ、会社からは出社を促す電話があった。その後はもう、家の電話はつながらなくなった。
JR三ノ宮駅南の本社を目指して歩いた。神戸大学付属病院の横を通って大倉山公園を抜け、山手幹線へ。ここで初めて事の重大さに気付いた。斜めになったビルの窓からブラインドが垂れ、風に揺れていた。下山手通では赤れんがの山。崩れた下山手カトリック教会だった。カメラのファインダー越しの光景は、信じられない気持ちも相まって、少し前に見た戦争映画の一場面みたいだと、どこか人ごとのようだった。
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文化部に到着後は、ワープロなど、運べる機材をできる限り持ち出した。神戸・ハーバーランドの仮社屋に移すためだ。だがその後は、文化部の仕事はない。中央区の兵庫県警本部生田庁舎に行くことになった。
被災者の人数も、壊れた建物の数も、全容は不明。ただ廊下の壁に次々張り出される亡くなった方の名前を、他の新聞社の記者たちと肩をぶつけ合いながらメモしていった。
公衆電話ならつながると聞いて外へ出たが、列ができていた。意を決し、並ぶ人たちに「神戸新聞です。会社に連絡を。もうすぐ締め切り時間なんです」と言うと、先頭の男性が順番を譲ってくれた。「どうぞ。早くこの状況を伝えて」
日付が変わり、奈良に住む映画配給会社の女友達に公衆電話からかけてみた。「無事でよかったね」。運よくつながった先の声は細く震えていた。そこだけポツンと明るい電話ボックスの中で、涙がこぼれた。
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【9】何のために書くのか 被災者から教わった 阪神総局記者・宝塚市担当(当時)小山優報道部デスク 2020/1/8