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この日、大阪までレストラン船「シルフィード」の船便が開設された。多くの被災者が列をつくり船を待った=1995年1月20日、神戸市中央区東川崎町1、高浜岸壁 弁天浜では岸壁が崩れ、止めていた車が海中に没した=17日、神戸市中央区波止場町 神戸港に立ち並んでいた倉庫街は大きな被害を受けた=23日、神戸市中央区小野浜町 道路の寸断や渋滞で陸上輸送が困難になり、船で食料や生活用品が運ばれた=20日、神戸市中央区港島3 協力して消火作業にあたる住民ら。手伝おうとしたが「しっかり仕事をしなさい」と諭された=17日、神戸市兵庫区 炎を上げて燃える自宅近くの民家=17日、神戸市中央区中山手通
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この日、大阪までレストラン船「シルフィード」の船便が開設された。多くの被災者が列をつくり船を待った=1995年1月20日、神戸市中央区東川崎町1、高浜岸壁

弁天浜では岸壁が崩れ、止めていた車が海中に没した=17日、神戸市中央区波止場町

神戸港に立ち並んでいた倉庫街は大きな被害を受けた=23日、神戸市中央区小野浜町

道路の寸断や渋滞で陸上輸送が困難になり、船で食料や生活用品が運ばれた=20日、神戸市中央区港島3

協力して消火作業にあたる住民ら。手伝おうとしたが「しっかり仕事をしなさい」と諭された=17日、神戸市兵庫区

炎を上げて燃える自宅近くの民家=17日、神戸市中央区中山手通

  • この日、大阪までレストラン船「シルフィード」の船便が開設された。多くの被災者が列をつくり船を待った=1995年1月20日、神戸市中央区東川崎町1、高浜岸壁
  • 弁天浜では岸壁が崩れ、止めていた車が海中に没した=17日、神戸市中央区波止場町
  • 神戸港に立ち並んでいた倉庫街は大きな被害を受けた=23日、神戸市中央区小野浜町
  • 道路の寸断や渋滞で陸上輸送が困難になり、船で食料や生活用品が運ばれた=20日、神戸市中央区港島3
  • 協力して消火作業にあたる住民ら。手伝おうとしたが「しっかり仕事をしなさい」と諭された=17日、神戸市兵庫区
  • 炎を上げて燃える自宅近くの民家=17日、神戸市中央区中山手通

この日、大阪までレストラン船「シルフィード」の船便が開設された。多くの被災者が列をつくり船を待った=1995年1月20日、神戸市中央区東川崎町1、高浜岸壁 弁天浜では岸壁が崩れ、止めていた車が海中に没した=17日、神戸市中央区波止場町 神戸港に立ち並んでいた倉庫街は大きな被害を受けた=23日、神戸市中央区小野浜町 道路の寸断や渋滞で陸上輸送が困難になり、船で食料や生活用品が運ばれた=20日、神戸市中央区港島3 協力して消火作業にあたる住民ら。手伝おうとしたが「しっかり仕事をしなさい」と諭された=17日、神戸市兵庫区 炎を上げて燃える自宅近くの民家=17日、神戸市中央区中山手通

この日、大阪までレストラン船「シルフィード」の船便が開設された。多くの被災者が列をつくり船を待った=1995年1月20日、神戸市中央区東川崎町1、高浜岸壁

弁天浜では岸壁が崩れ、止めていた車が海中に没した=17日、神戸市中央区波止場町

神戸港に立ち並んでいた倉庫街は大きな被害を受けた=23日、神戸市中央区小野浜町

道路の寸断や渋滞で陸上輸送が困難になり、船で食料や生活用品が運ばれた=20日、神戸市中央区港島3

協力して消火作業にあたる住民ら。手伝おうとしたが「しっかり仕事をしなさい」と諭された=17日、神戸市兵庫区

炎を上げて燃える自宅近くの民家=17日、神戸市中央区中山手通

  • この日、大阪までレストラン船「シルフィード」の船便が開設された。多くの被災者が列をつくり船を待った=1995年1月20日、神戸市中央区東川崎町1、高浜岸壁
  • 弁天浜では岸壁が崩れ、止めていた車が海中に没した=17日、神戸市中央区波止場町
  • 神戸港に立ち並んでいた倉庫街は大きな被害を受けた=23日、神戸市中央区小野浜町
  • 道路の寸断や渋滞で陸上輸送が困難になり、船で食料や生活用品が運ばれた=20日、神戸市中央区港島3
  • 協力して消火作業にあたる住民ら。手伝おうとしたが「しっかり仕事をしなさい」と諭された=17日、神戸市兵庫区
  • 炎を上げて燃える自宅近くの民家=17日、神戸市中央区中山手通

 生後1カ月の長男が目を覚ましていたため、あの瞬間は神戸市中央区の県庁北側にある自宅で、家族3人とも起きていた。「ドーン」と突き上げられる衝撃の後、ひと呼吸置いて左右に大きく揺さぶられた。ベッドの上で、長男に覆(おお)いかぶさった。

 当時は警察や海運の担当。揺れが収まってすぐ、神戸水上署と神戸海上保安部に電話を入れた。共に詳細は把握できておらず、妻と長男を実家に預けて三宮の本社へ向かった。

     ◆

 まだ薄暗い中、自宅から中央区北部を約10分歩いたが、レンガ塀の倒壊が目立つものの、大きな被害は見当たらなかった。持ち出した蛍光灯付きラジオからの情報も、震源が淡路島北部で、芦屋で被害が出ていることぐらいしか流れてこなかった。

 実家に置いていた車で三宮方面へ走ると、1分もたたないうちに、炎に包まれた木造家屋が視界に入った。当時は白黒写真が一般的だったが、「夕刊に使ってもらえるかな」と考え、一眼レフだけでなく、カラーフィルムの入った小型カメラでも写真を撮り、現場を離れた。

 三宮に近づくにつれ、状況は深刻さを増していった。大きなビルが何棟も倒れている。駅の周辺は目を疑うほどの悲惨な状態だった。

 窓ガラスが割れ落ちた本社2階の編集局に着いた。いつもは電話が鳴って大声の響くフロアが、人影もまばらで静かだった。今まで、呼び出しのポケベル音が一向に鳴(な)らなかった理由が、ようやく分かった。

     ◆

 発生日は、中央区内の持ち場周辺を取材した。夕刻からは車で兵庫、長田区の避難所などを巡り、2日目以降も市内各地を走り回った。

 兵庫区の火災現場では、マンホールから少量の水をくみ上げて、必死にバケツリレーする住民の姿を見つけた。「私も手伝うので1枚撮らせてください」と申し出ると、近くにいた男性に「手伝わんでもええよ。今起きていることをしっかり記録してくれ。それがあんたの仕事やろ」と諭され、はっとわれに返った。

 震災発生から数日、自分の書いた原稿やメモは紙面になっていなかった。落ち込んでいたが、男性の言葉に背中を押されて前向きになれた。だからあの火災現場の状況は、25年が過ぎた今もはっきり覚えている。

2020/1/29
 

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