生後1カ月の長男が目を覚ましていたため、あの瞬間は神戸市中央区の県庁北側にある自宅で、家族3人とも起きていた。「ドーン」と突き上げられる衝撃の後、ひと呼吸置いて左右に大きく揺さぶられた。ベッドの上で、長男に覆(おお)いかぶさった。
当時は警察や海運の担当。揺れが収まってすぐ、神戸水上署と神戸海上保安部に電話を入れた。共に詳細は把握できておらず、妻と長男を実家に預けて三宮の本社へ向かった。
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まだ薄暗い中、自宅から中央区北部を約10分歩いたが、レンガ塀の倒壊が目立つものの、大きな被害は見当たらなかった。持ち出した蛍光灯付きラジオからの情報も、震源が淡路島北部で、芦屋で被害が出ていることぐらいしか流れてこなかった。
実家に置いていた車で三宮方面へ走ると、1分もたたないうちに、炎に包まれた木造家屋が視界に入った。当時は白黒写真が一般的だったが、「夕刊に使ってもらえるかな」と考え、一眼レフだけでなく、カラーフィルムの入った小型カメラでも写真を撮り、現場を離れた。
三宮に近づくにつれ、状況は深刻さを増していった。大きなビルが何棟も倒れている。駅の周辺は目を疑うほどの悲惨な状態だった。
窓ガラスが割れ落ちた本社2階の編集局に着いた。いつもは電話が鳴って大声の響くフロアが、人影もまばらで静かだった。今まで、呼び出しのポケベル音が一向に鳴(な)らなかった理由が、ようやく分かった。
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発生日は、中央区内の持ち場周辺を取材した。夕刻からは車で兵庫、長田区の避難所などを巡り、2日目以降も市内各地を走り回った。
兵庫区の火災現場では、マンホールから少量の水をくみ上げて、必死にバケツリレーする住民の姿を見つけた。「私も手伝うので1枚撮らせてください」と申し出ると、近くにいた男性に「手伝わんでもええよ。今起きていることをしっかり記録してくれ。それがあんたの仕事やろ」と諭され、はっとわれに返った。
震災発生から数日、自分の書いた原稿やメモは紙面になっていなかった。落ち込んでいたが、男性の言葉に背中を押されて前向きになれた。だからあの火災現場の状況は、25年が過ぎた今もはっきり覚えている。
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