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西宮中央体育館に避難した人々=1995年1月17日、西宮市河原町(撮影・阪神総局員) 倒壊した木造家屋=18日、西宮市常磐町(撮影・阪神総局員) 全壊した民家から遺体を収容する警視庁レスキュー隊と自衛隊員=18日、西宮市中前田町(撮影・阪神総局員) 脱線した阪急電車=17日、宝塚市武庫川町1(撮影・写真部記者) 損壊した宝塚ファミリーランドの施設=23日、宝塚市栄町 震災後、初の顔合わせで公演の打ち合わせをする宝塚歌劇団。前列右は星組トップスター麻路さきさん=23日、宝塚市栄町、宝塚大劇場
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西宮中央体育館に避難した人々=1995年1月17日、西宮市河原町(撮影・阪神総局員)

倒壊した木造家屋=18日、西宮市常磐町(撮影・阪神総局員)

全壊した民家から遺体を収容する警視庁レスキュー隊と自衛隊員=18日、西宮市中前田町(撮影・阪神総局員)

脱線した阪急電車=17日、宝塚市武庫川町1(撮影・写真部記者)

損壊した宝塚ファミリーランドの施設=23日、宝塚市栄町

震災後、初の顔合わせで公演の打ち合わせをする宝塚歌劇団。前列右は星組トップスター麻路さきさん=23日、宝塚市栄町、宝塚大劇場

  • 西宮中央体育館に避難した人々=1995年1月17日、西宮市河原町(撮影・阪神総局員)
  • 倒壊した木造家屋=18日、西宮市常磐町(撮影・阪神総局員)
  • 全壊した民家から遺体を収容する警視庁レスキュー隊と自衛隊員=18日、西宮市中前田町(撮影・阪神総局員)
  • 脱線した阪急電車=17日、宝塚市武庫川町1(撮影・写真部記者)
  • 損壊した宝塚ファミリーランドの施設=23日、宝塚市栄町
  • 震災後、初の顔合わせで公演の打ち合わせをする宝塚歌劇団。前列右は星組トップスター麻路さきさん=23日、宝塚市栄町、宝塚大劇場

西宮中央体育館に避難した人々=1995年1月17日、西宮市河原町(撮影・阪神総局員) 倒壊した木造家屋=18日、西宮市常磐町(撮影・阪神総局員) 全壊した民家から遺体を収容する警視庁レスキュー隊と自衛隊員=18日、西宮市中前田町(撮影・阪神総局員) 脱線した阪急電車=17日、宝塚市武庫川町1(撮影・写真部記者) 損壊した宝塚ファミリーランドの施設=23日、宝塚市栄町 震災後、初の顔合わせで公演の打ち合わせをする宝塚歌劇団。前列右は星組トップスター麻路さきさん=23日、宝塚市栄町、宝塚大劇場

西宮中央体育館に避難した人々=1995年1月17日、西宮市河原町(撮影・阪神総局員)

倒壊した木造家屋=18日、西宮市常磐町(撮影・阪神総局員)

全壊した民家から遺体を収容する警視庁レスキュー隊と自衛隊員=18日、西宮市中前田町(撮影・阪神総局員)

脱線した阪急電車=17日、宝塚市武庫川町1(撮影・写真部記者)

損壊した宝塚ファミリーランドの施設=23日、宝塚市栄町

震災後、初の顔合わせで公演の打ち合わせをする宝塚歌劇団。前列右は星組トップスター麻路さきさん=23日、宝塚市栄町、宝塚大劇場

  • 西宮中央体育館に避難した人々=1995年1月17日、西宮市河原町(撮影・阪神総局員)
  • 倒壊した木造家屋=18日、西宮市常磐町(撮影・阪神総局員)
  • 全壊した民家から遺体を収容する警視庁レスキュー隊と自衛隊員=18日、西宮市中前田町(撮影・阪神総局員)
  • 脱線した阪急電車=17日、宝塚市武庫川町1(撮影・写真部記者)
  • 損壊した宝塚ファミリーランドの施設=23日、宝塚市栄町
  • 震災後、初の顔合わせで公演の打ち合わせをする宝塚歌劇団。前列右は星組トップスター麻路さきさん=23日、宝塚市栄町、宝塚大劇場

 1月17日は3連休明けだった。担当する兵庫県宝塚市長選の告示が、5日後に迫っていた。当時入社4年目で、連載記事を仕上げるため連休返上で執筆。西宮市和上町の阪神総局からJR西ノ宮駅(当時)近くの自宅に戻り、ベッドに潜り込んだのは、17日の午前3時を回っていた。

 「久しぶりにゆっくり眠れる」。どれぐらいたっただろう。突然、引っ張り回されるような激しい揺れ。テレビが転げ回る。まだ夢と現実のはざまにいると、玄関を激しくたたく音がした。「大丈夫ですかっ!」。隣人だった。玄関を開けると、街並みは数時間前とまるで変わっていた。見渡す限り、住宅は倒壊。自宅前では血を流した女性が座り込み、家族の介抱を受けていた。慌てて倒れたタンスから服を引っぱり出し、車で西宮消防署を目指した。

     ◆

 見慣れた国道沿いの建物がない。時折、どこにいるのか分からなくなった。消防庁舎に着くと、電話が鳴り続けていた。直接助けを求めに来る人もいた。「1歳の子が下敷きになった」。「父親が動かない」。隊員は「声は?」「反応は?」と確認。反応がないと聞くと、「早く行くから、それまで自分たちで何とかしてほしい。これだけの人が待っているんです」。隊員が示した通報のメモは、山積みになっていた。

 1日で数え切れない遺体を見た。少しの備えがあれば、救えた命があった。奇跡的に救われた人もいた。悔しさ、もどかしさ、悲しみ、喜び…。さまざまな感情に襲われた。

     ◆

 本社機能が壊滅し、初日の夕刊は4ページ。地域面が戻ったのは2月14日だ。取材しても、載せる紙面がない。それでも取材せずにはいられなかった。使命感というより習性だったと思う。日々、避難所に足を運んだ。多くの施設は取材拒否だったが、神戸新聞だけは迎え入れてくれた。

 「あんたの会社も大変やろう」。年配男性がおにぎりを一つ差し出してくれた。長い列に並ばなければ、救援物資をもらえなかった頃だ。冷たいおにぎりを頬張りながら、話を聞かせてもらった。家を失い、寒い避難所で新聞を待っているという。

 何のために書くのか。あの時期、記者にとって最も大切なことを教わった。

2020/1/8
 

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