1月17日は3連休明けだった。担当する兵庫県宝塚市長選の告示が、5日後に迫っていた。当時入社4年目で、連載記事を仕上げるため連休返上で執筆。西宮市和上町の阪神総局からJR西ノ宮駅(当時)近くの自宅に戻り、ベッドに潜り込んだのは、17日の午前3時を回っていた。
「久しぶりにゆっくり眠れる」。どれぐらいたっただろう。突然、引っ張り回されるような激しい揺れ。テレビが転げ回る。まだ夢と現実のはざまにいると、玄関を激しくたたく音がした。「大丈夫ですかっ!」。隣人だった。玄関を開けると、街並みは数時間前とまるで変わっていた。見渡す限り、住宅は倒壊。自宅前では血を流した女性が座り込み、家族の介抱を受けていた。慌てて倒れたタンスから服を引っぱり出し、車で西宮消防署を目指した。
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見慣れた国道沿いの建物がない。時折、どこにいるのか分からなくなった。消防庁舎に着くと、電話が鳴り続けていた。直接助けを求めに来る人もいた。「1歳の子が下敷きになった」。「父親が動かない」。隊員は「声は?」「反応は?」と確認。反応がないと聞くと、「早く行くから、それまで自分たちで何とかしてほしい。これだけの人が待っているんです」。隊員が示した通報のメモは、山積みになっていた。
1日で数え切れない遺体を見た。少しの備えがあれば、救えた命があった。奇跡的に救われた人もいた。悔しさ、もどかしさ、悲しみ、喜び…。さまざまな感情に襲われた。
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本社機能が壊滅し、初日の夕刊は4ページ。地域面が戻ったのは2月14日だ。取材しても、載せる紙面がない。それでも取材せずにはいられなかった。使命感というより習性だったと思う。日々、避難所に足を運んだ。多くの施設は取材拒否だったが、神戸新聞だけは迎え入れてくれた。
「あんたの会社も大変やろう」。年配男性がおにぎりを一つ差し出してくれた。長い列に並ばなければ、救援物資をもらえなかった頃だ。冷たいおにぎりを頬張りながら、話を聞かせてもらった。家を失い、寒い避難所で新聞を待っているという。
何のために書くのか。あの時期、記者にとって最も大切なことを教わった。
2020/1/8【20】出会った一人一人の顔 今も忘れない 写真部記者(当時)藤家武 映像写真部次長2020/3/25
【19】それでも撮った。感じていないふりをして 丹波総局員(当時)田中靖浩淡路総局長2020/3/18
【18】国生み神話の神社 大鳥居は無残に 津名支局長(当時)今中秀穂神戸新聞総合印刷・地域編集部次長2020/3/11
【17】3日間の暗闇「神様、なぜ」と女性は叫んだ 香住支局長(当時)中部剛報道部デスク2020/3/4
【16】取材か救助か 迷う時間はなかった 社会部記者(当時)浜田豊彦整理部デスク2020/2/26
【15】病院は薄暗く、不思議なほど静かだった 社会部記者(当時)網麻子文化部デスク2020/2/19
【14】地滑り現場は1日過ぎても煙が噴き出していた 姫路支社記者(当時)菅野繁整理部第二部長2020/2/12
【13】駆け付けた海兵隊員に被災者は笑顔を見せた 姫路支社記者(当時)藤原学報道部デスク2020/2/5
【12】「今起きていることをしっかり記録して」 社会部記者(当時)陳友昱運動部長2020/1/29
【11】取材経験ゼロ 写真だけはと街に出た 審査部記者(当時)堀井正純文化部記者2020/1/22
【10】学生の遺体に カメラを向けられなかった 文化部記者(当時)長沼隆之報道部長2020/1/15
【9】何のために書くのか 被災者から教わった 阪神総局記者・宝塚市担当(当時)小山優報道部デスク 2020/1/8